「私…私…私」と心の中で思っている時、まさにここで意根(末那識)のいわゆる「私」を探すのです。ここの「私」には意識と意根の両方の「私」が含まれており、両者の体性を分離することで意根の「私」を見出すことができます。その中でより深く隠れており、頑固で決断力があり、あまり他人の意見を聞かないこれが意根の「私」です。これは意根の作用する場所で意根を探し、意根を証得する方法です。「私…私…私」と思った時、ここで反省することができますが、これはなかなか難しいことです。
ここでどれが意根の「私」なのかを反省します。「私」と言う時、ここの「私」には第六意識が思う「私」もあれば、意根が思う「私」もあります。両者を分離して初めて、この意根の「私」を証得できるのです。しかしこれは少し困難です。主体性を発揮する働きにおいて、常に主体となっている「私は何をしようか」「私はこうしよう」という時の主体となり決断するその心こそが意根です。それを探せば比較的速く、また容易に見つかります。
もう一つ意根を証得する最適な時期は、突発的な事件が発生した時です。自分の反応を観察してください。突発事件が起きた時、自分は即座に反応し、考える必要がありません。反応時に決断するその心、それが意根です。ここで探すのです。事態がより突然であればあるほど、自分の対応が速ければ速いほど、これが意根です。なぜなら意識は全く反応する暇がなく、思考する間もないからです。全ては意根が無始劫以来の習気と慣性に基づいて決断し、選択を下します。そして六識にすぐに身口意の行いを生じさせ、非常に迅速なのです。
例えば外から突然物が飛んできて、すぐに自分にぶつかりそうになった時、あなたは機敏に一瞬で避けます。考える余地もなく、避けると決断したこの心こそが意根です。意根は無始劫以来身体に執着して「我」とし、ずっと色身の我(肉体としての自我)を縁としています。色身の状態及び色身に関連する状況を、意根は全て知っています。突発的な事態に遭遇すると、意根が身体に即座に避けるよう命じ、少しの危害や危険も受けないようにします。急いで避けると決断するこれが意根なのです。
あるいは家でお湯を沸かしている時、お湯が沸騰して突然少しだけ手や体にかかった場合、あなたが即座に手を振るう、この決断を下すのが意根です。なぜなら意識は反応する暇がなく、この突然の熱い触塵(触覚対象)が身体に接触しても、意識は感じ取る間もありません。熱いとは感じても、一体どういうことか考えている暇はなく、意根が即座に避けて手を振るう、あるいはこの状況をどう処理するかを決断し、身体に素早く反応させ対応させるのです。これが意根の決断です。手を振るった後で初めて感覚が生じ、心で少し怖くなったり苦しく悲しくなったりします。この時の反応が意識心の反応なのです。
意根と意識の二つの体性を分離します。分離してしまえば、意根は見つけやすくなります。では八識については、それぞれの識を一つずつ分離し、単独の識に分解し、各識の働きを観察すれば、各識の機能と体性を知ることができます。七つの識を分離し、全て見つけた後、残ったものが第八識です。このように八識を観行すれば、速やかに証得でき、また非常に直接的です。五蘊の虚妄性を観察し思惟するのも同様で、五蘊の活動を一蘊ずつ分けて観行すれば、各蘊の機能と体性が理解でき、ある蘊の生滅変異性を観察でき、それが無常で虚妄であり無我であると分かるのです。
意根と意識の二つの体性を分離します。分離してしまえば、意根は見つけやすくなります。では八識については、それぞれの識を一つずつ分離し、単独の識に分解し、各識の働きを観察すれば、各識の機能と体性を知ることができます。七つの識を分離し、全て見つけた後、残ったものが第八識です。このように八識を観行すれば、速やかに証得でき、また非常に直接的です。五蘊の虚妄性を観察し思惟するのも同様で、五蘊の活動を一蘊ずつ分けて観行すれば、各蘊の機能と体性が理解でき、ある蘊の生滅変異性を観察でき、それが無常で虚妄であり無我であると分かるのです。
9
+1