いかにして行が我であると見るか。六思身を指す。眼触より生ずる思、耳・鼻・舌・身・意触より生ずる思なり。この六思身の一つ一つを我と見る、これを「行即ち我」と名づく。いかにして行が我に異なるものと見るか。色を我とし、行を我の所有と見る。受・想・識を我とし、行を我の所有と見る、これを「行我に異なり」と名づく。
いかにして我の中に行あると見るか。色を我とし、行が中に住すると見る。受・想・行・識を我とし、行が中に住すると見る、これを「我中に行あり」と謂う。いかにして行の中に我あると見るか。色を我とし、行の中に住し四体に遍く存在すると見る。受・想・識を我とし、行の中に住し四体に遍く存在すると見る、これを「行中に我あり」と名づく。
釈:如何なるを「行蘊が我なり」と見るや。行蘊とは六思身なり。眼根が色塵に触れて眼識を生じ、眼識に思あり。耳根が声塵に触れて耳識を生じ、耳識に思あり。鼻根が香塵に触れて鼻識を生じ、鼻識に思あり。舌根が味塵に触れて舌識を生じ、舌識に思あり。意根が法塵に触れて意識を生じ、意識に思あり。意根この六思身を悉く我と見做し、我(意根)即ちこの六思身なりと認むる、これを「行即ち我なり(意根)」と称す。
実は行は我にあらず、六思身は我にあらず。六思身が我にあらざることを証得する時、六思身を我とする我見を断除す。その後意根は再び六思身を我と見做さず、眼根が色塵に触れて生ずる眼識の色を見る行蘊を我(意根)と認めず、耳根が声塵に触れて生ずる耳識の声を聞く行蘊を我(意根)と認めず、鼻根が香塵に触れて生ずる行蘊を我(意根)と認めず、舌根が味塵に触れて生ずる舌識の味を嘗める行蘊を我(意根)と認めず、身根が触塵に触れて生ずる身識の触覚を覚える行蘊を我(意根)と認めず、意根が法塵に触れて生ずる意識の法を思う行蘊を我(意根)と認めず。意根はこれらの機能作用を我と見做さず、五蘊に我なし。意識が六根を観行する時、意識意根は遂に意根も我にあらず、生滅変異無常なる空苦なることを証す。かくして意根は真に我見を断じ、五蘊七識の我を断除す。小乗法においては我無きに至る。
然るに大乗法においては尚真我第八識あり、断除すること能わず、永遠に存在して滅せず、これこそ真実の我なり。但し具体的観行においては、大乗法を修学し禅を参じて第八識を証得する時に至る。例えば般若心経に明らかに説かるる如く、第八識を証得する時、五蘊皆空(第八識)を照見し、色は空(第八識)に異ならず、空(第八識)は色に異ならず等と知る。これ大乗の角度より参破後の甚深智慧境界なり。悟り浅き者は尚観察し得ず。
いかにして行が我に異なると見るや。即ち意根が色蘊を我(意根)と認むれば、行蘊は我(意根)の所有となる。意根が受蘊・想蘊・識蘊を我と見做せば、行蘊を我の所有と見做す。これを「行我に異なり(意根)」と名づく。
実は行は我(意根)に異ならず、行蘊は我(意根)の所有にあらず。行蘊の機能作用は我のものにあらず、生滅変異無常にして空苦なるもの、把捉し得ざるものなり。故に意根は行蘊を我異我とする我見を断除す。
これは小乗法の観行角度より説く。大乗法の角度より見れば、菩薩が禅を参じて第八識を証得した後、五蘊が第八識に異ならざることを観察し得。五蘊全体は第八識より出生し、第八識に属し、第八識の機能作用にして、第八識と不一不異の関係にある。小乗の修学段階においては証得し得ず。
何を以て我(意根)の中に行あると見るや。即ち意根が色蘊を我と認め、行蘊が色蘊の中に住すると見る。意根が受蘊・想蘊・識蘊を我と認め、行蘊が受蘊・想蘊・識蘊の中に住すると見る。これを「我中に行あり」と指す。
実は我は行蘊の中に住せず。色蘊・受蘊・想蘊・識蘊の我は悉く生滅するもの、我にあらず。行蘊もまた生滅するもの、我の所有にあらず。我無く、我所も無し。これは小乗の観行角度及び結果より説く。大乗般若の観行角度及び結果より見れば、行蘊は第八識の中に住せず。第八識は形相無く、行蘊は空なり。二者は互いに存在し得ず。
何を以て行の中に我あると見るや。即ち意根が色蘊を我と認め、色蘊が行蘊の中に住し、我が行蘊の中に住し、行蘊が四肢全身に遍く存在すると見る。意根が受・想・識蘊を我と認め、受・想・識蘊が行蘊の中に住し、我が行蘊の中に住し、我が身体全身に遍く存在すると見る。これを「行中に我あり」と名づく。
実は行蘊の中に我無し。行蘊は空にして生滅し、色・受・想・識蘊もまた空にして生滅す。空即ち無なり、無の中に法無し。故に我と行蘊は互いに存在せず。
これは純粋に小乗観行の角度より説く。大乗観行の角度及び結果より見れば、第八識と行蘊もまた互いに存在し得ず。第八識は形相無く、行蘊は空なり。二者は互いに存在する能わず。
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