問:証果とは、意識が証果した後、さらに意根の承認が必要であるということでしょうか? ちょうど職場の年次報告書が、会社の公印を押されて初めて承認されるようなものですか? また、智慧は意識に付属するものですが、意識と意根に承認された智慧(習気の種子)も如来蔵に種子として保存されることができますが、意根の智慧とは習気の種子そのものなのでしょうか?
答:意識単独の了知は証と見なされず、意根も同時に了知してこそ証となります。なぜなら「我」と呼ばれるものは意根そのものであり、意識は意根に付属する下部機関であり、意根は指導者として主導的役割を果たすからです。我見を断つとは、必ず意根の我見を断つことであり、単に意識という下部機関の我見を断つだけでは不十分です。意識は意根の「我」に従属する機能的作用に過ぎません。
智慧には意識の智慧もあれば意根の智慧もありますが、真に一個人の智慧を代表するのは意根の智慧です。なぜなら意識の智慧は一時的で不安定であり、主体性を持たないからです。意根に智慧が生起する時、初めて常時智慧を保つことができ、その人こそ真に智慧ある者と言えます。意根の智慧こそ真に種子として保存され、来世においても継続的に作用します。意根は完全に種子と相応し、意識は後天的な環境による熏習の部分を代表します。意根には善悪両方の習気があり、意根の智慧は善なる習気に属します。
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