衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月14日    日曜日     第1開示 合計1691開示

意根の智慧こそ一個人の真の知恵である

問:証果とは、意識が証果した後、さらに末那識の印可が必要であるということでしょうか?それは丁度、会社の年末総括が会社の公印を押されて初めて承認されるのと同じようなものですか?また、智慧は意識に付属するものであり、意識と末那識の認可を得た智慧(習気の種子)もまた種子として如来蔵に貯蔵されることができますが、末那識の智慧は習気の種子そのものなのでしょうか?

答:意識のみが明らかに理解しても、それは証とはならず、末那識も同時に明らかに理解して初めて証となります。なぜなら、いわゆる「我」とは末那識のことであり、意識は末那識に付属する下位の存在、末那識は主導的役割を果たすリーダーだからです。我見を断つとは、必ず末那識の我見を断つことであり、意識という下位の存在の我見を断つだけでは不十分です。意識は末那識の「我」に従う一つの機能的作用に過ぎません。

智慧には意識の智慧もあれば、末那識の智慧もあります。末那識の智慧こそが真にその人の智慧を代表します。なぜなら、意識の智慧は一時的で不安定であり、主体性を持たないからです。末那識が智慧を生じさせた時、初めて常に智慧を持つことができ、その人こそが智慧ある人となります。末那識の智慧こそが真に種子を貯蔵し、後世においても引き続き作用を起こすことができます。末那識は完全に種子と相応じますが、意識には後天的な環境による熏習(くんしゅう)を代表する部分があります。末那識には習気があり、善悪の習気の両方を持ちますが、末那識の智慧は善習に属します。

——生如法師の開示
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第八識は我なりと雖も我性無く、第六七識は我に非ずと雖も我性有り

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小乗の苦・空・無常・無我と大乗の常・楽・我・浄の対応関係

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