念仏が意根に深く入り込み、意根の思考を転換させると、眠っているときもそのまま念仏を続けることができます。参禅が意根に疑情を引き起こすと、眠りについた後も参禅を続け、安らかに眠ることができません。問題が解決されていない場合、意根はそれを非常に重要であると認識し、眠った後も思量を続け、目が覚めて目を開けると、意識が突然悟り、問題が解決されます。
意識が明らかにしていない法を意根に委ねると、意根は深く疑い、思量を重ね、意識は本来の務めを果たします。いつしか意根が疑情を解決すると、意識は突然悟り、豁然と開眼するのです。
仏法において、意根は意識を用いて仏法の知識理論を学び、その後意根はこの学んだ理論的知識に基づいて消化吸収を行います。これは牛が休息時に反芻するのに相当します。多くの人々は意識のみに頼って様々な知識を収集し、それを再び発信するだけで、意根に消化吸収させて自己の必要な栄養とし、真実の智慧とすることを知りません。祖師方は「実証のない者が法を説くのは、耳から入り口から出る法である」あるいは「情思意解の法である」と説かれました。自らすら利益を得ていないのに、ましてや他者をどうして利益させることができましょうか。
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