意根と意識の関係は、目と眼鏡の関係に喩えられます。目には見分けにくいものがあるため、眼鏡をかけて識別を補助する必要があります。眼鏡が識別の内容を補助すると、目は自らが識別したと錯覚します。一方、比較的粗雑で容易に判別できるものについては、目単独で識別可能であり、眼鏡の補助を必要としないため、眼鏡を装着する必要がありません。これは意識が生起する必要がない状態に相当します。目が単独で眼鏡の補助なく識別を行う場合が非常に多いように、意根が単独で識別できる法も実に数多く存在します。この部分の内容については意識は認識しておらず、認識していないからといって意根がそれらの法を識別していないわけではありません。
したがって、一切の法に対して意根は絶対的な主導権・支配権を有しており、一切の法は意根に奉仕し、意根によって活用されなければなりません。これには意識も含まれます。
もし目に汚れがある場合、眼鏡だけを清掃して、目が明晰に物事を識別できる状態を保証できるでしょうか。意根は無始劫以来ずっと無明を有しており、無明によって様々な邪見が生じています。ただ意識に我見を断じさせ明心見性させ、意識の無明だけを除去したとして、万法の仮の主人である心が清浄であることを保証できるでしょうか。主人が智慧をもって一切の法を処理し対応することを保証できるでしょうか。
物事が見えにくい場合、目を治療すべきか眼鏡を修理すべきか。多くの仏教徒は眼鏡を修理する段階に留まり、目を治療するまで進むことを拒むか、あるいはできません。眼鏡を清掃した後、さらに目も清掃しなければ、やはり物事を明確に見ることはできません。意識が明らかになったら、さらに意根を明らかにしなければ、依然として愚痴のままです。
このように意根と意識がかかる関係にある以上、衆生の心行・心性とは主に意根の心行・心性を指します。意根の無明、意根の明、意根の心所法は極めて重要です。もし意根の心所法に無明がなく、すべてが明であるならば、もはや修行する必要はなく、意識もさほど大きな役割を果たさないでしょう。老牛が家に着き、牧童が任務を完了して休息できるようなものです。
0
+1