衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年07月25日    木曜日     第1開示 合計1717開示

意根と意識の関係は、目と眼鏡の関係のようなものです。

意根と意識の関係は、目と眼鏡の関係に似ている。目が物をはっきり見られない時は、眼鏡をかけて認識を助ける必要があり、眼鏡が認識を助ける内容を、目は自ら認識したと思い込む。一方、比較的粗く容易に識別できるものは、目単独で認識可能であり、眼鏡の助けを必要としないため、眼鏡をかける必要がなく、これは意識が生じる必要がないことに相当する。目が単独で認識し眼鏡の補助を必要としない場合が実に多いように、意根が単独で認識できる法も確かに多く、この部分の内容は意識は知らないが、知らないからといって意根がそれらの法を認識していないわけではない。

したがって、一切の法に対して意根は絶対的な主導権と支配権を持ち、一切の法は意根に奉仕し、意根のために用いられるべきであり、意識もこれに含まれる。

もし目に汚れがあるのに、眼鏡だけを洗浊した場合、物を鮮明に認識できることが保証できるだろうか?意根は無始以来ずっと無明を抱えており、無明ゆえに様々な邪見がある。意識だけに我見を断じ、心を明らかにして本性を見させ、意識の無明だけを除去したとして、万法の仮の主人である心の清浄さを保証できるだろうか?主人が智慧を持って一切の法を処理し対応することを保証できるだろうか?

物が見えない場合、目を治療するのか、それとも眼鏡を修理するのか?多くの仏教学習者は、眼鏡を修理する段階に留まり、目を治療する一歩を進めることを拒むか、あるいは進められない。眼鏡を洗浊した後は、目も洗浄しなければ、やはり物ははっきり見えない。意識が明らかになったなら、さらに意根を明らかにさせねばならず、そうでなければ依然として愚痴のままである。

意根と意識がこのような関係であるならば、衆生の心の行いと心性は主に意根の心の行いと心性を指す。意根の無明、意根の明、意根の心所法は極めて重要である。意根の心所法に無明がなく、すべて明であれば、もはや修行する必要はなく、意識もさほど大きな役割は果たさないだろう。牛が家に帰り、牛飼いの童子は任務を完了して休息できるのである。

——生如法師の開示
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意識の推論と推測は解脱とは無関係です

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意識がない時の意根の特殊な作用

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