夢がない時には六識がなく、ただ意根と第八識のみがある。無想の時も六識がなく、意根と第八識が共に作用しているが、意識は覚知がなく、意識も存在しない。仮に意識があっても、深甚な智慧がなければ意根と第八識が如何に共に作用しているかを知ることはできない。
さて悟りを証得した後、禅宗第三関の生死牢関を通過し解脱を得て三界を出離する能力を具えるためには、意識が大智慧を有し、意根と第八識の和合作用を現前に如実に観察できるようになり、生死牢関を破らねばならない。そのためには初禅定を証得し陽炎観を経た後、第三関の公案を参究しなければならない。この公案を参究する際、意識は依然として意根と共に参究を続け、当然第八識も参与しなければならない。さもなくば第六・第七識は滅して作用できなくなる。
では何故、無夢無想の時に第八識が意根と如何に作用するかという実相を参究すれば牢関を破り解脱を得られるのか。もし禅宗第三関に至ってもなお意根を証得できず、意根の作用を僅かに観察することもできないならば、第三関の公案を参究できず、牢関を破ることも生死輪廻を出離することもできない。この時意根の証自証分は必ず更に強力となる。意根が自らを証知する智慧を得た時、必ず執着を破り、五陰身と六識を執取しないだけでなく、自己をも執取せず、第八識をも執取しない。もし第八識を執取すれば、三界を出離し解脱を得ることはできない。
意根が証得する法が多ければ多いほど、また深ければ深いほど、解脱の功徳は大きくなる。もし最も微細な法までも実相を証得すれば、一切の微細な法執を断じ、大解脱究竟解脱を得て仏道を成就し、以降修行する必要がなくなる。我々が修行する上で何が最も重要かを明らかに認識せねばならず、曖昧にしてはならない。
小乗は第八識を証得していない故、当然第八識を執取せず、禅宗第三関を通過する必要もなく、ただ五陰無我を完全に証得すれば我執を断じて解脱し三界を出離できる。ある者が凡夫衆生の意根は全て第八識を我として執取していると言うなら、この誤解が如何に深刻か皆考えてみるがよい。凡夫の意根が第八識の存在を知っているなら、それは凡夫だろうか。第八識を知らない者が如何にして第八識を執取できようか。仏は寧ろ全ての凡夫衆生が第八識を執取することを願っておられる。そうすれば五陰身を執取せず、分段生死もなくなるのである。
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