衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月02日    金曜日     第2開示 合計1749開示

禅宗第三の関

夢がない時には、六識は存在せず、ただ意根と第八識のみがある。無想の時にも、六識は存在せず、ただ意根と第八識が共に作用しているが、意識には覚知がなく、意識そのものも存在しない。たとえ意識があったとしても、意識には深い智慧がないため、意根と第八識が実際にどのように共に作用しているのかを知ることはできない。

さて、悟りを開いた後、禅宗の第三関である生死の牢関を突破し解脱を得て、三界を離れる能力を獲得するためには、意識が大いなる智慧を持ち、眼前に意根と第八識の和合した作用をありのままに観察できるようになり、それによって生死の牢関を破らなければならない。そのためには、悟りを開き初禅定を修得した後、陽炎観を過ぎてから第三関の公案を参究する必要がある。この公案を参究する際には、意識は依然として意根と共に参究しなければならず、もちろん第八識も参与しなければならない。そうでなければ第六識と第七識は共に滅び、作用することができなくなる。

ではなぜ、夢もなく想いもない時に第八識が意根と共に作用する実相を参究できれば、牢関を破り解脱を得られるのか。もし禅宗の第三関を修行する段階に至ってもなお意根を証得できず、意根の作用状況をほんのわずかでも大雑把に観察できないならば、第三関の公案を参究することはできず、牢関を破ることもできず、生死の輪廻から離脱できず、解脱を得ることはできない。この時、意根の証自証分は必ずより強力になる。意根に自らを知る明らかさ(自知之明)が生じた時、それは必然的に執着を破り、五蘊の身や六識を執着しないだけでなく、自分自身をも執着せず、第八識をも執着しない。もし第八識を執着するならば、やはり三界を離れることはできず、解脱を得ることはできない。

意根が証得する法が多ければ多いほど、深ければ深いほど、解脱の功徳は大きくなる。もし最も微細な法までも実相を証得できれば、一切の微細な法執を断ち切り、大いなる解脱、究竟の解脱を得て仏道を成就し、これ以降は修行する必要がなくなる。したがって、私たちが修行において何が最も重要であるかを心にしっかりと明らかにし、曖昧にしてはならない。

小乗は第八識を証得していないため、当然第八識に執着することはなく、禅宗の第三関を通る必要もなく、一関も通る必要はない。ただ五蘊の無我を完全に証得できさえすれば、我執を断ち切り解脱を得て、三界を離脱することができる。世の中には「凡夫衆生の意根はすべて第八識を我として執着している」と言う人もいるが、皆さん考えてみてほしい、この誤解はどれほど深刻なものか。凡夫の意根がもし第八識の存在を知っているなら、それはまだ凡夫だろうか?第八識を知らないのに、どうして第八識を執着できるだろうか?仏様はむしろ、すべての凡夫衆生が第八識を執着することを望んでおられるのである。そうすれば五蘊の身に執着することはなくなり、分段生死は存在しなくなるのだから。

——生如法師の開示
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《増一阿含経》巻第四十六

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