仏法は実証を重んじ、実証を求めます。実証がなければ、口伝や推論による理解だけでは、とっくに大道から十万八千里も離れてしまっています。もし心の中に空というものを確立し、それを真実で実在の法とすれば、空は真実となり、法に縛られて解脱できなくなります。一切の法は空であるならば、その「空である」という法自体は空なのでしょうか?もし一切の法が空であるというその法が空でないなら、どうして一切の法が空であると言えるでしょうか。
多くの人は真に我見を断っておらず、五蘊が空になっていないのに、想像で法空を推測し、一切の法を第八識と見なそうとします。六地・七地の菩薩の境地に至って初めて、真に一切の法を第八識と見なすことができるようになります。しかし六地・七地の菩薩も、八地・九地の菩薩を含めて、全ての法をことごとく第八識と見なすことはできません。なぜなら、まだ証得していない法が数多くあり、証得していない法は、到底ありのままに第八識と見なすことができないからです。最も粗浅な五蘊の身ですら、それが第八識から生じたものであると証得しておらず、この点を真に観行していなければ、五蘊の身を真にありのままに第八識と見なすことはできません。もしそうでなければ、とっくに我執を断ち切り、初地に入っていたはずです。
多くの人は、何らかの法を実証したことがないため、修行方法を仮想し、修行の道筋を仮定します。その道筋図は不明瞭で、自分自身も理解できません。現代の仏法の流布はまさにこのようなもので、段階を踏んだ実際の修行には全く触れず、確実に実行可能な方法や手段が何一つありません。
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