二乗の修行者は、すでに見道した行者と未だ見道していない行者に分けられる。見道した行者は、五蘊十八界の生滅変異に実体がなく、我の主宰性がないことを証得し、無我三昧を得て、四相(我相・人相・衆生相・寿者相)を破り、法眼浄を獲得した。そのため、心中では四相に対する空観・不実感が生じ、人我に関する四相における有為法が次第に減少する。道共戒の故に、内心の貪欲は自然と軽減され、人我や是非の念も薄れ、煩悩を降伏させることができる。初禅定を修得した後は煩悩が断除され、貪欲と瞋恚の煩悩が滅尽する。この時、異性と接触しても愛欲心が起こらず、内心は自在無碍である。しかし出家の戒律があるため、衆生に模範を示すとともに、衆生の誤解を招かないよう、三果・四果の聖者(阿那含・阿羅漢)は言行挙止において戒律を遵守し規範に従いながらも、内心には束縛がない。
出家者は衆生の依止(よりどころ)である。外見上は威儀を整え、衆生がこれを見て三宝に恭敬の念を起こし、善根を植えるようにすべきである。仏在世の時、世尊が僧伽(僧団)を建立されたのは、第一に衆生が俗塵を離れて解脱を得るため、第二に衆生の依止となり、衆生を導いて俗塵を離れ三宝に帰依させ、解脱の種子を植えさせるためであった。出家者は見道の有無にかかわらず、自ら範を示し、模範的に戒律を遵守し、言行を規範に従わせ、あらゆる威儀を備えている。托鉢行乞の際には接触する衆生も多いため、なおさら威儀を具え、衆生に笑われることのないようにし、悪業を造って悪果報を受けることを避けなければならない。それ故に彼らは乞食の際、道を歩く時はうつむき、視線は前方の道に向け、左右を見回したり横目で見たりせず、眼前の衆生をまともに見上げることもない。施主に出会っても、当然ながら男女の別や美醜を弁えようとはせず、鉢飯を受け取ると、挨拶もなく振り返って去る。行者たちはひたすら生死解脱を願っているため、心は六塵の境界にも世俗にもとどまらない。そうしてこそ道を証得し、世俗の五欲六塵に束縛されないことを保証できるのである。
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