声聞の修行者は三果以降、煩悩は伏せ除くのではなく断ち除くのである。断ち除くからこそ、五欲六塵に束縛されず、三界を脱して解脱を得ることができる。煩悩を伏せ除くとは煩悩を抑圧することで、二果以前、特に見道以前に煩悩を降伏させることを指す。三果になって初めて煩悩を断ち除くのであり、伏せ除くだけでは煩悩から離脱できず、解脱を得ることはできない。
大乗菩薩の修行もまた、声聞行者が行うところから離れることはできない。小乗の修行を離れては、菩薩とは名乗れず、ただの凡夫に過ぎない。菩薩も最初は個人の修道過程において、声聞と同様に戒律を守り、威儀を備え、衆生の模範となる。戒律を守るからこそ禅定を得て、見道に至ることができる。菩薩も小乗における我見を断つことから修行を始めなければならず、証果を得なければ大乗の見道には至れない。小乗の戒・定・慧や見道による法眼浄は、大乗菩薩たちも越えることができず、そうでなければ大乗菩薩もおらず、小乗行者も存在しない。
菩薩たちは小乗の見道で初果を証得した後も、引き続き初禅定を加行し、五下分結(三縛結に貪欲と瞋恚の煩悩を加えたもの)を断除しなければならない。そうして初めて大乗法において禅宗三関を通過し、陽炎関や如梦観を経る資格を得て、初地に入ることができる。初地に入ってからは、意図的に煩悩を完全に断尽せず、阿羅漢のような「正性離生」を取らない。つまり四果阿羅漢の果位を証取せず、ごく微細な煩悩を残すことで、無余涅槃に入らずに済むのである。無余涅槃に入れば仏種が断たれてしまう。
菩薩がどれほど悟りを急いでも、小乗の各関門を越えることはできない。もし故意に飛び越えようとするならば、その者は真の修行者ではなく、ましてや大乗菩薩とは言えない。四相と煩悩を具足した菩薩は菩薩ではなく、凡夫と同等である。もし菩薩に悟りを急ぐ心の行いがあれば、その心は求める心であり、無為の心ではない。私的な目的を持つ心には必ず四相があり、煩悩がある。つまりそれは凡夫の心である。凡夫の心と相応するならば、真の菩薩にはなれない。真の菩薩は必ず相を破った菩薩であり、我相・人相・衆生相・寿者相がなく、証果の相も悟りの相もない。これらの相を持つ者は、すなわち凡夫である。
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