意識が色法塵に作意する時、識の種子が色法塵に流注し、意識が声法塵に作意する時、識の種子が声法塵に流注する。意識が同時に各種の塵境を了別する際には、絶えず塵境を切り替えて作意しなければならず、また同時に作意することも可能であるが、禅定がなければ心は乱れる。二つの法塵の了別に主従がある場合、主要な面にはより多く作意し、副次的な面にはより少なく作意する。意識が作意を切り替えて了別する際には知と不知が生じるが、同時に作意して了別する際には全ての塵境を知り、知の多少の区別がある。
眼が色を見る時、同時に声を聞くことはできないだろうか? 同時に香りを嗅ぐことはできないだろうか? 同時に触覚を感じることはできないだろうか? 同時に歩くことはできないだろうか? 同時に話すことはできないだろうか? 同時に回想することはできないだろうか? いずれも可能であるが、了別には主従が必要で、あるものは明瞭であり、あるものは不明瞭である。作意の切り替えが極めて速い場合、識心は了別が断続的であることに気づかず、あたかも映画を見ているかのようである。意識の識種子は同時に六塵に生起することができ、それは河川の分流に相当し、勢いが弱く了別が不明瞭で智慧を生じることができない。これは定力がない状態である。定力が非常に優れている時、一心多用が可能で、意識はあらゆる面で強力であり、了別は全て明瞭で智慧を伴う。
意識は同時に二つ三つの作意心所を現出させることができ、五遍行心所法が二つ三つの法上で運行しても問題ない。複数の作意心所が現出することも可能であるが、勢いは弱まり了別力は強くなく、特に微細な了別を必要とする場合、その力は弱まる。意識は同時に声法塵上、色法塵上に作意でき、また触法塵上、香法塵上、味法塵上にも作意でき、識種子は同時に流注する。もし全てを適切に配慮し明瞭に了別しようとするならば、相当に熟練した技巧と非常に優れた禅定が必要である。
例えば曲芸師は、足下のローラーをバランスさせながら、頭で水の入ったコップなどを乗せ、さらに手に持った輪を回転させ、いくつもの動作を適切に配慮し調和統一させなければならない。これには一定の訓練が必要である。訓練は単に六識を訓練するだけでなく、実際には意根を訓練し、意根に全ての動作を調和させ統括させることである。意識の識種子が同時に流注するだけでなく、意根の識種子も同時に複数の法上に流注しなければならず、それは河川の分流のようでありながらその勢いを変えない。これには高度な協調と集中が必要である。故に集中とは単に注意力を一つの法に集めることだけでなく、複数の法に集中し、全てを配慮周全に把握することである。
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