世俗法において「精思は神に入るべし」という言葉があります。精思とは深く細やかな思惟を指し、これによって止(サマタ)を得ることができます。これは観(ヴィパッサナー)から止に入る方法です。止から更に深い観を修め、止観を等しく保ち、相互に補完し合うのです。経典を読む際には、一つの句や教義を深くゆっくりと思考し、全ての意識をその句に集中させることで定力を引き出します。この定力を借りて観行思惟を極めて微細に行い、未到地定に入り、さらに有覚有観の初禅、有覚無観の初禅から二禅への定に入ることが可能です。そして有覚無観の覚を滅すれば、二禅に入ることができます。
観行によって法義を深く思惟すれば、入定が早まり、定力の向上も速やかで、理法の理解も深まります。思惟定中の身心は愉悅に満ち、精力が充実します。定力を高めたいなら、妨げのない時に一、二時間観行思惟すれば、定慧が共に生じ身心安穩を得られます。深細な観行ができないのは福徳が不足している証であり、福徳が甚だしく欠ける者は進歩できません。福徳を増すには大願を発し、他者を思いやり、私心慢心を減らし性障を除くことです。
深く思惟すべき法義の大筋は万人に共通ですが、具体的な法義は各人異なり、解決できない疑問を抱えています。この疑問を心に深く懸け、観行思惟に専念するのが定です。この定を得て更に深く思惟すれば、疑問は徐々に解消されます。
福徳を修めれば定の修得は難しくなく、一切の修行も容易になります。清浄な大願を発し、性障煩悩を調伏すれば福徳は速やかに集積し、仏菩薩の加護が強く現れ道業は急速に進歩します。自己中心的な考えに囚われず、常に他者を慮ることが大切です。自己を突出させる者には仏菩薩の加護が及びません。
定力が未熟な者は、福徳の具足・煩悩性障の軽減・貪着の有無・世俗への執着・願力不足などを点検すべきです。不足があれば補い、性障煩悩を除く努力をします。自力で克服できない場合は楞厳咒を誦し、仏菩薩と護法神の加護を求めます。
現段階の修行目標は性障煩悩の調伏です。自己を点検し不足を補い、和合して修行します。言葉に注意し、他者の過ちには方便で接し、根拠なく批判すれば自らの福徳を損ない業を負います。福徳は些細な瞬間に流失します。慢心を捨て謙遜になることが福徳を培います。自己の悪念を自覚できる者は真の自知者です。意識の五十一心所において悪法は善法を凌駕します。自らを過信せず、常に向上心を持つべきです。
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