参禅の方向は、行住坐臥の一切の五蘊活動の中に求められるべきです。一つの法が現れる際、その本質が何であるかを探究しなければなりません。五蘊は虚妄であると言われますが、虚妄であるならば、なぜ現れることができるのでしょうか。行住坐臥の行蘊は全て幻化であり、いかにして幻化されたのか、誰がこれらの相を幻化したのか。座禅をする時、座禅をしている人は存在するのでしょうか。誰が座禅をしているのか。第八識如来蔵は座禅せず、第七識意根も座禅せず、意識心も座禅せず、前五識も座禅しません。身体に識心がなければ座禅もできません。では考えてみましょう、座禅をしている人は存在するのでしょうか。誰が座禅をしているのか。座禅という法はどのように形成されたのか。これが参禅であり、参究が通じれば悟りが開けます。
言葉を発する際には、考えてみるべきです:誰が話しているのか、話している人は存在するのか。話すという法はどのように形成されたのか。第八識如来蔵は話さず、第七識意根も話さず、意識心も話さず、前五識も話しません。舌に識心がなければ話すこともなく、そうでなければ死者も話すでしょう。結局誰が話しているのか。いかにして話し、言葉はどのように形成されるのか。これが参禅であり、参究が通じれば悟りが開けます。念仏するのは結局誰なのか。経を読むのは結局誰が読んでいるのか。一切の事柄に疑情を起こし、因縁が熟せば疑情が解決し、迷いを破って悟りが開けるのです。
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