我々の中には自らが虚妄であり、仮の殻に過ぎないと心で理解している者がおりますが、これは我見を断つと言えるのでしょうか。無我を悟り、自らが虚妄であると知るには、意識心の理解と意根の理解が存在します。意識の理解にも真の理解と偽の理解があり、真剣に観行思惟を伴わない理解は真実の理解とは言えません。しかも意識心だけの理解は浅薄で、往々にして大した作用を及ぼさず、心の奥底にある意根は依然として五蘊を我と認めております。それ故に実際の問題を解決できず、まして解脱を得て輪廻を脱することは叶いません。意根は五蘊の一切の身口意行を主宰決定する力を持ち、意識心の造作をも含みます。意根に生死の結縛が残っている限り、五蘊と六識を引き連れて生死輪廻を続けるのです。
真に我見を断つとは、意根が五蘊が確かに虚妄無常であることを認め確信し、意根が五蘊無我の理を明らかに悟ることにあります。意根に確信を持たせるには、意識心が深く細やかに観行を重ね、観行を通じて思惟の過程と結果を意根に伝達せねばなりません。そうして初めて意根は自ら思量し、五蘊自我の虚妄性を確認できるのです。意識は五蘊の各蘊が虚妄であること、十八界の各界が虚妄であることを思惟観行し、特に意識心の虚妄性を徹底的に思惟し尽くさねばなりません。そうしてこそ意根は五蘊が確かに非我であり、一切が虚妄であることを認め確信し、心の底から思想が相当程度転換され、真に我見を断つに至るのです。
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