衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月26日    金曜日     第1開示 合計955開示

見惑を断つことと思惑を断つこと

我見を断つことは、知見上の煩悩惑、すなわち見惑を断つことである。見惑には、意識の知見上の迷いもあるが、最も主要なのは意根が無始劫以来持ち続けてきた知見上の迷いである。見惑は見道の時に断つべき知見上の煩悩であり、すなわち不正確な知見を断ち切ることであり、主に第六識と第七識の誤った知見や観点を含む。思惑は修道の時に断つべき思想観念上の煩悩であり、すなわち貪欲・瞋恚・愚痴・慢心などの煩悩惑である。

見惑は初果を証得する時に断たれ、思惑は三果と四果の時に断たれる。すなわち初禅を証得して初めて断ち始めることができる。貪愛と瞋恚を断つのは三果の聖者であり、一念の無明・愚痴・我執を断つのは四果の聖者である。さて、意根の我見もまた見惑であり、知見上の煩悩惑に属し、初めて見道する時に断つべきものである。意根の思惑煩悩は二果の時に降伏され、三果の時に断ち始め、断じ尽くすのは四果の聖者であり、これは八地の菩薩に相当する。

初果で我見を断つ際には、必ず意根の我見を含む。もし意根の我見を含まないならば、初果を証得することは非常に容易なことである。しかし実際には容易ではなく、多くの人は一生涯阿含経を学んでも、初果を証得することはできない。実のところ、多くの人の意識は一切の法が虚妄であり、夢幻泡影の如しと理解しているにもかかわらず、それでも我見を断つことができず、初果の聖者となることができないのである。

意識心の我見は断ち除きやすい。なぜなら智慧が強く、法を聞けば即座に思惟観行することができ、我見と無明を容易に打破できるからである。これに対し意根は比較的困難である。なぜなら意根の我見と無明は根深く固く、意根の智慧は弱く、接触した法義を速やかに理解することができず、必ず意識の思惟力に依存し、意識がいくつかの資料やデータを提供して、意根が参考にできるようにする必要がある。そうして初めて意根は無我の理を思量して確認し、それによって我見を断つことができるのである。

——生如法師の開示
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