無為法とは、一つには真如の心本来の無為性を指し、もう一つは七識の妄心が修行を通じて後天的に具える無為の心性を指します。無為には生滅がなく、有為には生滅があります。第八識には有為性もあれば、無為性もあります。
第八識の無為性とは、自心の本性が無為なるものであり、一切の法に対して無心で、能動的に何らかの法を造作しようとする心行がなく、一切の法に対して主宰しないことを意味します。第八識が万法を生じる際には作意と心行を有しますが、心性は依然として無為であり、能動的な造作の心がなく、自らが何を造作しているかを知らず、境界法に対して全く無知で、知ろうとせず、また縁に随って一切の法を生じます。もし第八識が無為法でなければ、世間も出世間も無為法は存在しなくなります。七識が如何に無為であっても第八識の無為には及ばず、仏地の七識でさえも同様です。
第八識は如何にして無為であるか。無数の世俗法を造りながらも、心は依然として空であり、無心であり、無願であり、起滅がなく、主宰性がなく、無我性を具えています。第八識は無我性を有し、無我であるが故に無為であり、自我のためではなく、何らの目的のためでもなく、私利を有しません。もし無我の心がなお有為法に属するならば、これは重大な矛盾です。
もし第八識が純粋に有為法であるならば、それは必ず生滅するはずです。第八識は如何にして有為であるか。世俗法を造ることが有為です。もし第八識が純粋に有為であるならば、七つの識は如何にして第八識に近づき、第八識に学んで自らの心性を転換できましょうか。七識は如何にして一切の境界に如如不動でいられましょうか。七識は如何にして無為を達成し仏道を成就できましょうか。七識が第八識に学ぶべきものは何でしょうか。もし第八識が純粋な有為法であるならば、私たちが禅を参じて第八識を証することも不要となり、悟った後も第八識の清浄無為性に転依することはできず、七識は永遠に心性を転換できず、こうして悟っても悟らなくても成仏は叶いません。
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