第六識が第七識を薫染できず、第八識のみを薫染すると言う者がいます。この言葉は正しいでしょうか。鍵は第六識の薫染の目的と、第八識が薫染を受けられるか否かにあります。第六識が仏法に触れ、その良さを感じ、無明を断じて解脱を得ようとします。そこで懸命に修行し、一心に解脱を求めます。この修行の過程で、第八識が薫染されるのか、それとも第七識が薫染されるのでしょうか。
第六識が仏道を修行することで、第八識を薫染し、第八識も仏道を修行させることができるのでしょうか。第六識に無明があり、その無明を断じようとする時、第八識に無明を断じさせることは可能でしょうか。第八識に無明はあるのでしょうか。般若心経には「(第八識に)無明もなく、無明の尽きることもない」と説かれています。第八識に無明がないならば、それを薫染して何を成そうとするのでしょう。第八識は無防備で、聴こえず語らず見えず、どうして仏道修行ができるでしょうか。
第八識には悪法が存在しないのに、どうして第六識のように悪を捨て善に従うことができましょうか。第六識が成仏や解脱や涅槃を願うとき、第八識がどうしてそのような心行を持つことができましょうか。第八識そのものが如来であり、解脱自在であり、もともと生滅せず動静なく来去しない涅槃の境地にあって如如不動なのです。さらに何を求めようというのでしょう。
第八識に三十七道品を修めさせようとしても、理解できるでしょうか。修める必要があるでしょうか。戒定慧を修めさせようとしても、本来から戒定慧を具えているので教えを要しません。煩悩を断じさせようとしても、何らの煩悩もないのにどうして断じられましょう。
第八識を薫染しようとする者は、根本的に第八識の本質を理解せず、薫染とは何か、その意義をわきまえていません。そこでさまざまな妄執や妄想が生じ、頭の上に頭を乗せるが如く、蛇足を描くが如く、数十年も空しく奔走しながら、依然として仏道修行の真義を知らないのです。
意根は無始劫来ずっと無明と共にあり、無明に絡み取られてきました。六識が生じた後、意根は無明を六識に伝達し、第六識を薫染してきました。仏道を学んだ後、第六識が覚醒すると、意根をも覚醒させ、意根を少しずつ明るく薫染し、無明を徐々に修断します。この過程で意根が薫染を受けると、種子が生じ、第八識に収蔵され後世の用に備えます。後世でどのように用いられるのでしょうか。種子の縁が熟すると再び第六識を薫染し、第六識が覚醒して仏道修行をしつつ意根を薫染し、新たな種子を形成して第八識に収蔵します。このように雪だるま式に、意根に薫染された種子は次第に増大し、無明は薄れていき、ついに一切の無明を断じ尽くして衆生は成仏するのです。
第八識はこの中で絶え間なく薫染された種子を収蔵し出力するという重要な役割を果たしています。もし第八識が種子を保存し出力する機能がなければ、修行は単なる遊戯に等しく、修行しても無駄に終わり、何ら残るものなく、後世で用いる功徳も生じません。第八識が種子を保存する過程を「受熏持種」と呼びます。
古文は誰もが解釈できるものではなく、深甚な仏法も誰しもが脳裏で推測し得るものではありません。自らを過信して「自分はこれこれできる」などと思い上がってはなりません。何かを成し遂げることは極めて難しく、膨大な善根・福德・智慧を必要とします。なお「第八識を用いずに修行成仏できる」と言う者もいますが、いったい何をもって成仏できるのでしょう。自らの主人であり無量劫の恩人である存在を認めないなら、まさに頭脳を開眼させるべき時です。
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