世俗界には類比というものがあって、同じ種類の事物については、そのうちの一つあるいは一部を証明すれば、同じ類のものはすべてそうであると証明されたことになり、すべてを証明する必要はない。これは世俗界の決まりであって、仏法にも同様に当てはまる。人間が行う検査におけるサンプリング調査は、一部を調査するだけで全体の同類を証明する。これは比量なのか?比量ではない。
私は自分の五蘊を観行 (vipaśyanā-caryā) して、自分の五蘊が苦・空・無常・無我であると証明すれば、他人の五蘊もまたそうであり、すべての衆生の五蘊もまたそうであるという結論を導き出す。これは比量なのか?比量ではない。たとえば私が参禅して開悟し、自身の中の第八識を証得したなら、その後、他人の第八識もまたそうであり、すべての衆生の第八識もまたそうであると知る。これは比量なのか?比量ではない。幾何や算数など、あらゆる学術上の実験と推理では、しばしばこのような方法で証明が行われる。すなわち「これに準じて推し量る」である。文章を書いて事理を分析する際にも、「これに準じて推し量る」という語が必ず使われる。後のものがこれと同じであることを表し、改めて証明や推論をする必要がない、これが同類の結論である。これは比量なのか?比量ではない。
一切の事理の結論の正しさを証明するには、ときに現量から出発せず、非量から出発して思惟し考証を重ね、最終的に一つの現量の結論を導き出すことがある。非量にも多くの大きな用途がある。頭の回転が十分に使える人は、とりとめのない空想をしても道理にかなっていれば、それは空想ではなく、頭が切れるということになる。
頭の回転が鈍い人は、どれだけ現量のデータを与えられても、どうしても一つの如実で正しい現量の結論を導き出せない。このような人はあまりにも多い。数え切れないほどの苦痛を経験しながら、なお苦を知らず、内面の思想が麻痺している。それは実のところ愚痴である。愚痴な人は九割以上を占める。無数の挫折を経験しながら、振り返ることを知らず、なおも袋小路に突き進む、一本気な愚かさである。苦・空・無常・無我は、明らかにすべて現量であり、これほど多くの現量のデータが証明しているのに、人々はどうしてもはっきりと見ることができず、それでも仏法を学び、思惟し観行 (vipaśyanā-caryā) しようとしても、観行できない。これを愚痴という。五欲六塵が明らかに無常で生滅変異し、掴めず、執着できないということは、事実の真相がすでに現量として現れているのであり、まざまざと輝いているのに、無数の人々がどうしても分からず、自分を制御できず、なおも必死に抓み取り執取 (upādāna) しようとして、手を少し緩めること、少し休むことを肯んじない。哀れであり、かつ愚痴である。
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