衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月29日    木曜日     第2 回の開示 合計1879回の開示

意根は無記性でしょうか?

無記性とは、心の性質が善にも悪にも帰属せず、不善不悪の性質に属することを指します。意根は主導識として、衆生の身口意の行いを主宰しています。もし意根に善性がなければ、衆生の身口意の行いには善行が存在し得ず、この世に善人は存在せず、天界も存在し得ません。衆生が仏法を学んでも善人となることができず、仏法を学ぶ意味が失われます。もし意根に悪性がなければ、六識に働きかけて身口意の悪行を造作することもなく、この世に悪人は存在せず、三悪道も存在しません。しかし現実はそうではなく、六道輪廻は意根に善悪の心行が存在するが故に、六識が善悪の行いを造作し、この世に善人と悪人が存在し、衆生が善道と悪道を生死流転するのです。

もし意根が不善不悪であれば、意根には煩悩心所法も善十一心所法も存在せず、衆生は元来煩悩を持たず、仏法を学ぶに当たって煩悩を断じる必要がなくなります。衆生が元来不善であれば、仏法を学んでも善人となり仏に成ることもできません。もし意根に善悪性がなく無記性であるならば、世の善人とは全て不善不悪の中性者が善へ変化したものであり、世の悪人も中性者が悪へ変化したものとなります。そうなれば先天的な善人も悪人も存在せず、全て後天的な意識による善悪法の薫習によって形成されることになりますが、これは不可能なことです。

さらに言えば、このような善人は意識が善である偽善者であり、悪人は意識が悪である偽悪者に過ぎず、真の善人も悪人も存在しません。もし意識が如何に善悪の環境に薫染されて善悪へ変化しようとも、意根が意識の薫染を受けて善悪へ変化しないのであれば、善人も悪人も存在し得ません。なぜなら意根は善悪心所法と相応せず、善悪を持たない中性であり、永遠に中性のままであれば、衆生が如何に修行しても仏に成ることはできず、善悪業の種子を蓄積することもなく、六道において生死輪廻することも不可能だからです。

このような状況では、意根はもはや主導識ではなくなり、五蘊の活動は意根の支配下に置かれず、意根と意識が各自の方針に従うことになります。五蘊は混乱を来たすでしょう。意根が無記業を造作し、意識が善悪業を造作する中、意根が東を目指し意識が西を目指せば、色身は最終的にどちらに向かうのでしょうか。意識が仏法を学ぼうとしても意根がそれを望まなければ、五陰身は如何に造作されるべきか。分裂して二つになるのでしょうか。精神分裂や人格分裂は、意識と意根の深刻な不一致と不調和によって引き起こされ、双方が譲らず対立し、意根は苦悩に満ち崩壊寸前となります。もし意識と意根がそれぞれ業種を持つならば、二組の業果報が存在し、意識は天界へ昇り、意根は地獄に堕ちることになります。最終的に五陰身は天界へ昇るのか、地獄へ堕ちるのか。この故に、意根には善悪性が存在し、善悪心所法を有するのであって、単なる無記性ではないのです。

——生如法師の開示
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