『楞厳経』の後半に説かれる五十種の陰魔は、いずれも神通力に優れ、衆生が到底及ばず、大いに憧れるものではないか。しかしそれらは全て魔の境界であり、普通の凡人では魔に入ることはできず、魔も彼らを見下す。魔に見初められ加護を授けられた者は神通力を得、ほとんど仏の境界に達しようとする。衆生はこれを知らず、強く執着し、殊勝で並外れたものが必ず良い境界だと思い込み、禅定もあり、いわゆる智慧もあり、神通の力もある。しかしこれこそが魔の境界、魔力の加護による結果である。結果として、これらの神通力を得た者は魔から離れられず、魔の眷属となる。
魔がなぜこれほどの神力を持つのか。第一に、彼は極大の福徳を持ち、禅定と神通を具える。第二に、彼は仏法を理解しているが、ただ知っているだけで証していない。この「知る」ことが既に非凡で、仏法を破壊するには十分である。経典によれば、仏が経を説くたびに、波旬は仏が何を説くか、その経の重要性、衆生が聞法後の果報をも知っていた。彼は衆生が解脱を証し自らの支配から離れることを極めて嫌い、様々な姿に変じて法会に潜り込み妨害した。波旬は神通を現し衆生を引き付け、あたかも衆生を救済するかのように仏法を説きながら、実際には衆生を様々な煩悩貪欲に誘い込んで解脱を妨げた。
仏陀入滅後百年、禅宗第四祖優波鞠多尊者が世に出て法を弘めた。尊者が法会で重要な点を説き、衆生が我見を断ち証果しようとする時、魔王は密かに妨害し、天から金銀などの宝の雨を降らせ衆生の注意を引き、これほどの干渉を受けた衆生は我見を断てず証果できなかった。尊者が禅定に入ると、魔王はその禅定を破るため様々な奇形異類を現し尊者を悩ませ縛ろうとしたが、全て尊者に見破られ魔力を破られた。魔王は阿羅漢たちとも度々争ったが、神通力ある阿羅漢たちに制され逃げ帰った。
今や末法の世において、魔王がどのような姿を現そうとも、衆生は見抜く眼力なく、多くが騙され止め難い。魔力が来れば、衆生はほとんど抗う力なく従順に帰依し、五体投地して崇拝する。魔王が修行者を乱す時は必ず深遠な法を説き、一見正しいが実は誤りである。実証を経た修行者のみが魔説を識別でき、一般人は魔の言葉に引き込まれ、その説法を深遠と考える。
多くの者は、魔王が魔である以上、道理を乱し仏法を知らず、悪人で善行をしないと思い込む。しかし仏法を知らぬ者は絶対に魔になれず、善行をせぬ者も魔にはなれない。仏法を知らぬ魔は修行者を乱せず、仏法を破壊できない。善行せぬ魔は福薄く、悪事を行う福徳もなく、衆生を魔子魔孫として摂受できない。魔王が仏教を破壊し衆生を摂受できるのは、自らの大福徳による。眷属欲を満たすため、衆生が仏法を学び欲界を脱するのを阻み、自らの支配下に置くためである。衆生が禅定で欲界を脱し、証果見道で欲界を離れる者だけを、魔王は邪道に導くよう妨害する。他の衆生は全て自らの眷属と見做し、善法を修する者さえも干渉しない。
故に衆生が仏法を学ぶ初期段階では、魔王は関与せず魔障にも遭わない。浅い仏法には魔王も破壊を企てず、欲界の境界を超えんとする法と者のみを狙い、要所に邪見を混入し誤謬を加え、衆生が実証できないようにする。
よって魔王も法を説くが、決して浅い仏法は説かず、必ず解脱に近い仏法を説く。似非論を交え霧を撒き、大衆の目を眩ませる。大衆は学びつつも実証できず、解脱も欲界脱出も叶わない。極楽往生を願う衆生には魔業が許さず、策略で人心を惑わし、娑婆世界の欲界人間や三悪道で生死を繰り返させ、魔王の支配下に置く。衆生は無知で眼力なく、孫悟空の如き金睛眼も持たず、多くが騙されつつ無限の感謝を抱き、迷妄に沈むのである。
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