仏法を学ぶ者の中で、無所求の人は稀であり、無心の人は更に少ない。求める心とは即ち世俗法における執着であり、仏法の修行は全て無心無欲無求を極めることにあり、凡て心有り求有りとする者は未だ成就せざる者である。何を求めようとも、全て心有りの状態であり、求める法を真実と見做して貪着する故に、悉く正しからず。或る者は眷属の多きを求め、威望を求め、権勢を求め、主宰たらんと求め、福徳を求め、政治勢力を求めるなど、皆心思いを誤り用いるもので、修行人の為すべきことではない。
金剛斉比丘は大般若を修行し、所住する心無く、魔王波旬が一劫に亘り窺うも、滋擾を加えるべき下手処を見出せず、機会を求めても乱すこと叶わず、懊悩して帰す。然るに貪欲熾盛にして求める所甚だ多き者は、欲界を出づること能わず、元より魔眷属なり。波旬は彼らを乱さぬばかりか、大力の加持と鼓動を以て、更に貪らせ、大貪に、狂える貪りを続けしむ。真に修行する者こそ常に魔障に遇い、波旬の乱りを受くるなり。放逸の者は魔に制せられ、魔眷属となる。魔は全ての衆生が五欲楽を享受し、貪瞋痴の煩悩を放縦し、自心を降伏せず、愈々放逸することを願う。魔王波旬はまた衆生の修道心を打撃し、信心を失わしむることに長け、魔は歓喜し、衆生は騙される。
修道者にとって正知正見を具えることは極めて重要であり、甚深なる禅定を具えることも殊更に重要である。魔の擾乱を善く弁え、魔意に随わず、魔窟に入らざるべし。禅定は凡ての仏法事業を成就せしめ、禅定無くしては一切の事業廃絶す。人々が禅定を修めることを阻止する者は即ち魔眷属なり、智慧ある者は善く魔を弁ずべし。呪を多く念じ、禅定を多く修すれば、魔を降伏せしめ得る。禅定無くしては、聰明智慧有るも用を成さず、煩悩の誘惑に抗し得ず。真に修行の道に入る時は、夢中に於いても五欲魔を降伏し、夢境は愈々清浄となり、心は愈々清明となる。禅定を欠く者は、何を為すも益無く、真の修行とは言えず。常に意識心の層面に留まること無かれ、益無きことなり。
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