福徳がなければ、定力を修めることは非常に困難です。こちらで坐禅を始めると、すぐに人事の障りが現れ、対応せざるを得なくなります。まさに定に入ろうとする時、妨げが発生し、やはり処理しなければなりません。振り返ってみれば、人々はどのような点で絶えず福徳を消耗しているのでしょうか。これを自覚できたなら、福徳を安易に浪費せず、道業を速やかに増進させるべきです。
現代社会の物質的生活がこれほど発達していることは、現代衆生の福徳が大きく、仏在世の衆生の福徳が小さいことを意味するのでしょうか。世間の人々は安易に福徳の種を現世の利益に換え、享受に用いるのは、まことに智慧がなく、善根が欠如しています。善根と智慧ある者は福徳を留保し修道に用い、世間法として現世の享受や誇示に換えることはしません。
多くの人々は世俗の生滅する事柄を自慢の種とすることを好みます。例えば「私は高官である」「権威ある地位にある」「莫大な富を持つ」「非凡な才能がある」など。これらはすべて世間の虚妄の法であり、頼りにならず、すぐに滅びるもので、存在しても空です。世間の人は空を悟ることが難しく、あることしか知りません。
かつて禅宗の祖師が法統を継ぐ弟子を探す際、弟子の見解を問い、悟りの有無や智慧を観察しました。弟子が口を開くや、師は悟りがないことを見抜き「汝は福薄く、我が宗を継ぐに足らず」と言いました。祖師の意は、智慧不足の重要な要因が福徳の不足にあるということです。我々の思考が乱れ明晰でない時も、常に自らの原因を探求すべきです。
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