阿頼耶識を思議するとは、すなわち意識をもって分析し理解しようとすることを指します。阿頼耶識は理解によって得られるものではなく、想像によって生じるものでもなく、研究によって明らかになるものでもありません。必ず禅定の中で実証し、意識と意根という二つの識の無明を破らなければなりません。意根の無明が破れなければ、身口意の行いは永遠に無明のままであり、さらにこの無明を来世に持ち越し、生生世世において依然として無明に囚われ続けるのです。
多くの人々が文字の中でもがき苦しみながら阿頼耶識を考察し、言葉を分解していますが、禅宗の祖師方はこれを「古紙の山を穿つ」と称しました。両眼で文字を見つめるあまり紙を溶かし、貫通せんばかりの勢いです。学びの資料を大量に整理し日々読誦する者もいれば、そらで暗唱できるほど文字に親しみ、即座に口に出す者もいます。しかし彼らは真に法義を消化吸収していません。なぜでしょうか。禅定がなく実証を得ず、真の義理を理解せず、表面だけを学ぶ様は、まるで書物を暗唱するがごとくです。
このような修行はどの識を用いているのでしょうか。全て意識による分析推論研究に過ぎず、禅定がなければ意根に深く入り込めず、意根を動員できなければ、法を自己のものと化すことができず、永遠に言葉の表面をなぞるだけです。禅定がなければ思考は少し深まったところで停止し、深く入り込めず、ただ浅薄な知識を知るに留まります。
よって各自は自らの修行方法を内観すべきです。誤りがあれば速やかに修正し、一日も早く正道に乗り、大智慧を獲得するよう努めなければなりません。
3
+1