法を学ぶことは法を証得するためである。法を証得しようとするならば、意識が仏法に対して熟知してはならない。なぜかと言えば、意識が熟知すると、既に理解したと思い込み、深く思惟参究しようとする意欲を失い、口先だけの禅問答に流れ、表面的な理解に留まり、道を妨げるからである。意識が未だ十分に理解していない法に対してこそ、深く追究する意欲が生じ、意根がこれに関与するようになり、それによって初めて法を証得する可能性が生まれる。
多くの人々が禅定を修得できず、深く細やかな思惟観行ができないため、法義を反復誦読せざるを得ず、ついには法義を丸暗記して逆からも唱えられるほどになるが、その深い内実を悟ることができず、証得にも至らず、これによって重い業障を消し去ることができないのは、誠に惜しむべきことである。
常に古書に埋もれる者の智慧は、書物を多く読まずとも深く思索を好む者に比べて遥かに及ばない。後者の語る言葉は常に自らの言葉であり、決して他人の言葉を繰り返さないが、前者が口に出す言葉は全て他人の声であり、他人の言葉を反復するに過ぎない。
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