六識が如何なる法を有するにせよ、それは六識が存在する状況においてのみ可能である。もし六識自体が存在しないならば、どうして何らかの法を有することができようか。例えば、張三という人物がいなければ、張三が何かを所有しているとは言えない。家がなければ、家の中に何があるかを論じるべきではない。同様に、睡眠中には六識が存在しないため、六識が睡眠という法を有することを論じてはならない。では、睡眠は誰の法であろうか。それは意根の法である。意根自体は眠らないが、身体の状態に応じて睡眠を必要とする。身体の疲労や倦怠を解消するためである。もし睡眠をとらなければ、身体が疲労し、意根は六識を正常に使用して様々な仕事を成し遂げることができなくなる。つまり、睡眠は意根が必要とし、意根が決定するものであり、意根の能動的な行為選択である。意根が睡眠を選択する目的は、五陰身がより良く働くためである。もし五陰身に疲労や困頓がなければ、意根は五陰身を継続して運行させ、中止することはない。天人においてはこのようである。故に、睡眠は意根と相応し、六識とは相応しない。六識が滅した時、初めて睡眠が生じるのである。
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