問:意根は一切の法を黙容し、如来蔵をも黙容するが、如来蔵は一切の法に対し自ら主導せず、我性がなく、必ず意根と共に作用し、意根と密接不可分である。意根を心王とし、如来蔵を意根の心所と言えるか。
答:意根は一切の法を黙容するが、この一切の法は如来蔵を含まない。なぜなら意根は如来蔵の存在を知らず、如来蔵の具体的な功用も知らないからである。意根は如来蔵が起こす機能作用を黙容し、それらの作用を好んで執着するが、これらの機能作用が全て如来蔵のものであることを知らず、誤って自己の機能作用であると認識し、絶え間なく執着貪愛を続けるのである。
もし意根が如来蔵を黙容するなら、如来蔵の運作を知り、五蘊世間法が全て如来蔵の運作によって現れ、自己に関わる事柄ではないと知るはずである。その場合、意根は我見を断じ、我執と法執をも断除し、心中の無明を破除できるはずである。しかし実際はそうではない。故に意根は如来蔵を黙容せず、如来蔵の起こす機能作用を黙容し、それらの作用を「我」の機能作用と誤認する。これを「内に如来蔵の機能を執って我と為す」という。これ故に意根は我慢・我愛・我執などの諸煩悩を生起し、無明が深重なのである。
如来蔵は主導性を持たず、自ら一切の法を主宰せず、常に意根に随順して一切の法を運営し、意根を離れない。しかし如来蔵は意根に帰属せず、意根の心所ではない。意根が如来蔵の心王ではなく、逆に如来蔵が心王であり、意根は心所である。なぜなら如来蔵は意根の存否を決定し、意根に生存の種子を提供するからである。故に如来蔵は意根の心王であり、意根は如来蔵の心所である。他方、如来蔵は常に意根に随順するわけではなく、多くの場合業種に随順する。意根の多くの願いや求めを如来蔵は満たせないが、永遠に業種を出力し続け、業種に随順する。従って意根は如来蔵の心王となることができず、如来蔵は意根の心所ではなく、意根に帰属しない。
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