衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月17日    火曜日     第2 回の開示 合計1920回の開示

末法時代における意根と意識の区別を理解する重要性

現代の者は禅定を修めず、禅定を修めることができず、ただ口先だけで、二、三冊の本を読み、意識で理解しただけで悟りを開いたと思い込み、解悟ですらなく、証悟だと称する。よって末法の衆生に意根と意識の区別を理解させ、大衆に解悟とは如何なるものか、証悟とは如何なるものを知らしめ、衆生が大妄語を避けることが必要である。

末法の混乱は極めて甚だしく、衆生の情執は深重である。口では常に「法に依り人に依るな」と説きながら、実際はその逆を行っている。もし衆生が皆理にかなって法の如く修行し、真に法に依り人に依らず、スローガンを少なくし、実際のことを多く行い、できる限り完璧を期し、真に仏の説かれたことに依るならば、仏もまた心安らかになり、仏に背かず教えに従って行うことが、即ち仏恩に報いることになる。

情執を少しでも降伏させれば、少しずつ事実の真相が見えてくる。道業を重んじ、情執を重んじてはならない。情執は人を救うことはできず、各人の業は各人が受け、誰も代わることはできない。もし心を大きくし、精力を充実させるならば、仏教を重んじ、衆生の生死を重んずべきである。そしてまず仏陀の恩恵を理解し、仏陀の恩に報いる方法を考え、言葉や行いで仏陀を悲しませないようにしなければならない。如来蔵が刹那刹那に種子を蔵していることを知るべきである。私たちが言葉を発し行動する時、身口意の行いの一瞬一瞬に、如来蔵が監督し記録している。よって私たちは必ず如来蔵を畏敬し、因果を畏敬しなければならない。口先で叫ぶだけで、実際には違うようなことがあってはならない。

——生如法師の開示
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