衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年09月17日    火曜日     第3 回の開示 合計1921回の開示

定中は必ずしも一法にのみ縁するとは限らない

意識が禅定にある時、意識は本当に一つの法に集中しているのでしょうか。例えば念仏を唱える時、意識は仏号だけに専念でき、他のことを知覚できないのでしょうか。もしそうであれば、この人は仕事ができず、昼夜の区別もつかず、東西南北も分からなくなってしまうでしょう。静座中に禅定に入ったとしても、一つの念しか存在せず、念仏以外に自分が坐禅していることや昼夜の区別を知覚するなら、それはもはや一つの念ではなくなりますが、それでも禅定に入ったと言われます。

したがって意根にも禅定が存在します。意根が禅定にある時、接触する全ての法に対して必ずしも受想行を生じるのではなく、特定の少数の法に対して選択的に受想行を生じます。これが禅定です。もし意根が全ての法に対して受想行を生じるならば、意識は一切の法を認識するために発生し、この場合意識は禅定を失って崩壊するだけでなく、意根も耐えられなくなります。

例えば目の前に百人の人間がいる場合、意根は全ての人と接触できますが、意根が同時に百人全員に対して受想行を生じるなら、誰の意根がこれほどの精力を持ち得るでしょうか。意識はさらに手が回らなくなるでしょう。もしこのような能力を持つ人がいれば、同時に百の仕事を与えて完成させ、一人で百人分の仕事量をこなせる天才と言えます。実際にはこれは不可能なことです。

——生如法師の開示
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