意識が定(じょう)の中にあるとき、意識は本当に一つの法に集中しているのでしょうか。たとえば念仏(buddhānusmṛti)のとき、意識は仏号だけに集中し、他のことを知らないことができるのでしょうか。もしそうであれば、この人は仕事ができなくなり、天が昏く地が暗いのも分からず、東西南北も分からなくなってしまうはずです。たとえ静坐の中で入定したとしても、一つの念しかないということはできません。念仏のほかに、自分が静坐していることも知っており、昼と夜も知っているのですから、それは一つの念ではなく、しかしそれでも入定と呼ばれるのです。
だから意根にも定があります。意根が定にあるとき、接触するすべての法に対して、必ずしもすべてを受想思するのではなく、選択的にごく一部の法に対してのみ受想思する、これこそが定なのです。もし意根がすべての法に対して受想思しなければならないとすれば、意識は一切の法をすべて了別するために生起しなければならず、そうなると意識だけでなく定がなく崩壊してしまい、意根も耐えきれなくなります。
たとえば目の前に百人の人がいて、意根はすべてに接触できますが、もし意根が同時に百人すべてに対して受想思しなければならないとすれば、誰の意根にそれほどの精力があるでしょうか。意識はなおさら忙しくて追いつきません。もしそんな能力を持つ人がいるなら、同時に百の仕事を与えて完成させてみせればよいのです。一人の仕事量が百人分の仕事量に相当するのですから、その人は天才ということになります。実際には、これはあり得ないことです。
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