唯識のこれらの法は非常に深遠かつ微細であり、悟りを開く以前に現量観行によって唯識の種智の法を観じ得るまでには、ほぼ無量劫の時間を要します。したがって、自らが如何に智慧あると考える者も、過信すべきではありません。
八つの識にはいずれも証自証分が存在し、自らが了別した法を証明できることから、識心には勝解があり、一定の智慧を有することが示されます。第六識の証自証分が現行する機会は比較的多く明瞭であるため観察しやすく、一般にも意識に智慧があり極めて強い勝解力が認められます。愚痴なる者においては、意識に内省力がなく証自証分が現前せず、勝解力を欠くため、世間法も出世間法も明らかにできません。
第八識に証自証分が存在することは、第八識が智慧と勝解力を有することを示します。その勝解力は業種を虚妄なく了別し誤解することなく、業種を正確に実現して錯乱しない点に現れます。また第八識が意根の心所法を理に適って如実に了別し、意根と密接に協調して意根の求める一切の法を出生させる点にも顕現します。
第七識にも証自証分が存在することは、第七識が勝解力を有し自らの認知と状態を了解する智慧を備えていることを示し、これによって将来識を転じて智と成すことが可能となります。第七識の勝解力は、第八識が現行させる法を了別し正しい決定を下して六識を指揮運営する点に現れます。また第七識が六識の観察了別した法を正確に了別し、意識の分析・思惟・判断を理解した上で正しい決定を下し、理に適った身口意の行を錯乱なく生起させる点にも示されます。
この勝解力が極大に発展した時、識を転じて智と成すことが可能となります。勝解力が最大に達した時、第三度識を転じて智と成し、遂に仏道を成就します。意根が未だ愚痴であり勝解力も大智慧もない状態で成仏できるとする説は存在しません。仮に可能ならば、それは愚痴仏の成就となるでしょう。また意根に勝解力がなく大智慧を欠いたまま識を転じて智と成し、地上の菩薩として如来の家に入り真の仏子となることも説かれていません。仮に可能ならば、それは愚痴菩薩の成就に過ぎないでしょう。
五識にも微弱な内省力が存在し、証自証分を有し、極めて限定された範囲での勝解力を備え、意根の指令に協調して運営されます。しかし五識の勝解力は意根に比べればはるかに劣り、意識よりさらに及ばず、第八識の勝解力にも及びません。ただし第八識は六塵境界を勝解できず、世間法を勝解することはありません。
意識に智慧がなく、これらの識の証自証分を観察し得ない場合でも、諸識の証自証分は依然として存在し運営され続けます。意識の観察能力の有無にかかわらず、この事実は変わりません。
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