如来蔵そのものは住むところない心であり、世間のいかなる法にも住まず、それ自体に世間の相もなく、まして四相など存在しません。相を破るべきは我々の意識心であり、意識が相に執着し、意識が何かに住着していることです。修行とは意識心が世間法への貪着住着を減らし、世間法に知見を向けることを少なくすることです。もちろん四相を破れば、如来蔵を証得することは容易であり、如来蔵を証得することは同時に四相を破ることでもあります。
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