衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年10月02日    水曜日     第4 回の開示 合計1953回の開示

言語の種子は縁熟して初めて現行する

問:子供の意識は新たなものですが、意根はすでに「老練」なものであります。子供が天井を見上げた時、それが天井であると知っているはずですが、「名」を知りながら「言」を知らず、如来蔵が「言」の種子を送っていないため、子供はそれが何であるかを言葉にできません。この理解は正しいでしょうか。

答:子供がそれを天井と知るには、必ず学習を経る必要があります。誰かがそれを天井だと教えて初めて知ることができます。しかし言葉を習得していない段階では表現できず、言語による表現ができません。意識が表現を習得する際、言語の種子が異なるため、子供それぞれの言語表現の方法は異なり、効果も異なります。明瞭に表現できる子もいれば、不明瞭な子もいます。

種子は縁に遇わなければ現行することができず、縁が具わらなければ種子は暫時作用しません。言語の種子が現行するには、意識が環境知識を学習するという縁が必要です。意識が世俗の知識を持たない時、言語の種子は作用しません。

——生如法師の開示
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