達磨大師が梁武帝に会った時、なぜ彼を救済しようとされなかったのでしょうか。数言交わすや背を向けて立ち去り、梁武帝が兵を差し向けても振り返りもされませんでした。河南嵩山の石洞で九年間壁に向かって座禅を組むことを選び、人を救済することも、ましてや梁武帝を導くこともなさらなかったのはなぜか。梁武帝とはいかなる人物か、調べてみれば寺院を建立し、出家を勧め、三宝を供養し、自ら金剛経を講じ、傅大士が説法に登壇する際には身をかがめて背中を階段代わりに提供した人物です。これほどの福徳を備え、善根浅からぬ人物を、なぜ達磨大師は導かれなかったのか。梁武帝が現代に生きていれば、とっくに十八、九度は悟りを開いていたでしょう。そのような資質は現代社会でも稀なものですが、達磨大師は一顧だにされず、ましてや言葉を交わすことさえ拒まれた。いったいなぜか。大師が九年間壁に向かう間にどれほどの人を救えたか、しかし一人も顧みられなかったのはなぜか。
梁武帝の福徳は確かに大きく、三宝への護持も殊更で、善根が浅くないことは否定できません。しかし畢竟、自ら心を明らかにし言葉の下に宗旨を識る境地には至っておらず、達磨大師には彼を向上の道へと段階的に導く余裕がなかったのです。宗門の器ではない者に言葉を費やしても無駄です。禅門が救済するのは生死を解脱せんとし、且つ因縁が具足した者です。因縁の備わらぬ者を強いて悟りへ導けば、仏教と衆生に害を及ぼします。
真に道を得た祖師方は、理を説くだけで実践できない者を最も嫌います。求めているのは真に理を証得できる器量ある弟子です。故に達磨は因縁熟した者を見出せぬと、九年間壁に向かい因縁の熟した弟子を待たれた。梁武帝は当時金剛経を数座も講じ、座主を務めましたが、畢竟ただの説理者に過ぎず、理を証得してはいませんでした。証得せずに理を説けば、その言葉は空虚で実義を伴いません。達磨大師が如何に心を砕いても無駄だったのは、梁武帝が畢竟まだ道の器ではなかったからです。
かつて徳山禅師が未悟の頃、金剛経を幾度も講じ「周金剛」と呼ばれ、両肩に青龍疏鈔を担いで南方へ魔を破りに向かいましたが、龍潭禅師に教化されて悟りを開いた後、自らの心血を注いだ二担の疏鈔を焼き払い「窮諸玄弁 若一毫置於太虚 竭世枢機 似一滴投於巨壑」と呟いた故事の如くです。未だ真に悟らぬ者がいかに書物を著しても、それは紙屑に等しいのです。
説理と証理の違いは何か。説理者は意識を用い、証理者は意根を用います。達磨大師の血脈論に「若し性を見ずんば、十二部経を説くとも、尽く是れ魔説、魔家の眷属なり、仏家の弟子に非ず。既に皂白を弁ぜず、何を憑りて生死を免れん」と。つまり十二部経を説けても性を見なければ、それは魔説と同じだというのです。
説理多く証理少ない現象は、特にこの末法の世に蔓延しています。説理者は満ち溢れ、証理者は見当たらず、ただ理を説く者が天地に満ちて人を煩わせます。彼ら説理者を「解悟」と評するのは過大評価であり、しかも彼らはこの名称にすら不満を抱いています。解悟した者には実際の修行過程がありますが、最後の証得の段階には至らず、推理と想像に留まっています。禅定はあるものの未だ不十分、智慧はあるものの水増しが多く、三十七道品は修めるも未だ円満ならず、菩薩の六波羅蜜も修するも未だ完成せず。現代においてなぜ解悟の条件さえ整わぬ中、これほど多くの証悟者が現れるのか。この答えは各自が思索すべきでしょう。
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