衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年10月12日    土曜日     第1開示 合計1964開示

虚相にも仮相にも虚偽の用あり

真如とは即ち如来蔵を指し、真実にして空性なり。その心体には一法も無きながら、しかも一切の法を現出し得る。妙有とは、五蘊十八界の法の相は有るが如く見えながら、その実質は無く、全て如来蔵より現出せる虚妄なる法なり。虚妄なる法は虚妄なりと雖も、全く存在せぬとは言えず、衆生が刹那毎にこれを用い、五蘊をもって食事し衣を纏い歩行し、五蘊をもって生活する故なり。衆生は虚妄なる十八界に生き、見るは仮の色、聞くは仮の声、嗅ぐは仮の香、味わうは仮の味、覚るは仮の触、識るは仮の法なり。見聞嗅味触識は全て五蘊の作用なり、故に五蘊の表面的存在現象を否定すべからず。

五蘊は真実の存在では無いが、なお虚妄なる存在という様式を有す。明らかに衆生は日々五蘊を用いているのに、なお五蘊の存在を否定す。心に真に五蘊が確かに虚妄なりと認め得る時、即ち我見を断つに至る。願わくは衆生皆かくの如くあらんことを。若し五蘊の虚相の存在をも否定するならば、我見を断つことも叶わず、五蘊十八界を観行せざれば、五蘊十八界の虚妄不実の性を見極め得ず、従って我見を断除すること能わず、全ての無明煩悩も消滅せしめ難し。

——生如法師の開示
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雑阿含経 第1巻(一一)

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