衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年10月19日    土曜日     第1 回の開示 合計1970回の開示

雑阿含経 第一巻(二四)

原文:かくのごとく我聞きき。一時、仏は王舎城伽蘭陀竹園に住したまえり。その時、世尊は羅睺羅に告げたまわく「比丘よ、如何にして知り、如何にして見るべきか。この識身及び外界の一切の相において、我及び我所有の見がなく、我慢の結使に繋がれることなきを」。羅睺羅、仏に白して言く「世尊は法の主なり。導きとなり覆いとなす。善きかな。世尊よ、諸比丘の為にこの義を演説したまえ。諸比丘は仏の説を聞きて後、受持し奉行せん」。

仏、羅睺羅に告げたまわく「諦聴せよ。諦聴せよ。善く思念せよ。汝の為に説かん」。羅睺羅、仏に白して言く「唯然。教えを受く」。仏、羅睺羅に告げたまわく「すべての色を観ずべし。過去・未来・現在の、内なる・外なる、粗なる・細なる、好しき・醜き、遠き・近き。それ一切は我に非ず、我と異ならず、互いに在らず。かくの如く平等の慧をもって如実に観ぜよ」。

かくの如く受・想・行・識を、過去・未来・現在の、内なる・外なる、粗なる・細なる、好しき・醜き、遠き・近き。それ一切は我に非ず、我と異ならず、互いに在らず。かくの如く平等の慧をもって如実に観ぜよ」。

「比丘よ、かくの如く知りかくの如く見る時、この識身及び外界の一切の相において、我及び我所有の見がなく、我慢の結使に繋がれることなきなり。羅睺羅よ、比丘かくの如く識身及び外界の一切の相において、我・我所有の見・我慢の結使に繋がれることなき者は、疑心を超越し、諸相を遠離し、寂静解脱する。これを比丘の愛欲を断じ、諸結を転じ、正しく無間等を成じ、苦の辺際を究竟するという」。時に羅睺羅、仏の説を聞きて歓喜し奉行せり。

釈:世尊は羅睺羅尊者に説きたまわく「比丘は如何にして証知し如何に見るべきか。七識より成る五蘊身及び身外の一切の境界相に我も我所有もなく、自らをして我見・我所見・我慢の結使に繋がれしめざらんことを」。羅睺羅、仏に白して言く「世尊は法の主なり。衆生の導首・導師となり、衆生を覆護したまう。故に世尊よ、諸比丘の為にこの義を演説したまえ。諸比丘は汝の法を聞きて後、受持し奉行せん」。

何故仏を法主というか。法主とは法の主人なり。仏は既に全ての法を証得し、全ての法を具足したまえり。即ち仏法の主人なり。一切の法は仏の自心より流出し、一法も知らざるなく、一法も証せざるなく、法に於いて自在なり。故に法主と称する。我見と我慢は二種の結使なり。固く衆生を繋縛して生死に沈淪せしめ、解脱を得させず。我見あるが故に我慢あり。我見はまた我所見を含む。

仏、羅睺羅に告げたまわく「我見と我慢の結使の繋縛を断ぜんと欲すれば、色蘊を観察すべし。過去・未来・現在の、身内の・身外の、これらの法は粗なる・細なる、好しき・醜き、目前より遠き・近きを含む。これら一切の色法は我に非ず、我所有にも非ず、且つ我と我所有は互いに存在せず。かくの如くにして平等の智慧なり。即ち如実の観察なり」。

かくの如く受・想・行・識を、過去・未来・現在の、身内の受想行識・身外の受想行識、粗重なる・微細なる、善き・悪しき、現在より遠き・近きを含む。これら一切は我に非ず、我所有にも非ず、我と我所有は互いに存在せず。かくの如く観察するは平等智慧の観察なり。即ち如実の観察なり。

仏説きたまわく「比丘はかくの如く証知し、かくの如く見るべし。この七識身及び身外の一切の境界相は我に非ず我所有に非ず、我慢の結使に繋がれることなし。羅睺羅よ、五蘊身心に我無く我所有無く、我慢の繋縛なき者を証得すれば、疑心を超越し、五蘊を我とする疑見を断じ、内心五蘊の一切の相を遠離し、心寂静解脱を得ん。かくの如き比丘は愛欲を断じ、全ての煩悩結使を除き、念念正知して生死苦の辺際に至り、遂に究竟解脱するなり」。

——生如法師の開示
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