色受想行識の真実相は無常であり、変易するものであり、不安定であり、空であり、苦であり、我ならず、我と異ならず、相在せず。既に無我であるならば、どうして「私は殊勝である」「私は劣っている」「私は他人に劣らない」などと言えようか。我ならず、我無き二法多法、空の二法多法、苦の二法多法、真実ならざる二法多法、どうして比較することができようか。どうしてどちらが高くどちらが低いと言えようか。あるいは平等であると。空の法・実在せざる法を、どうして取り上げて比較できよう。どうして兎の角の長短を比較できよう。どうして亀の毛の美醜を比較できよう。どうして「私があなたより優れている」「あなたが私より劣っている」と言えよう。どうして「私とあなたは同じく健康で裕福だ」と言えよう。世の人々は無明に覆われて倒錯し、既に習慣が自然となり、語ることが全く実義を持たず、全て戯れ言であることを知らない。言語と音声を含めて、全ては虚しく儚いものである。
二人が罵り合うとき、実質的に誰を罵っているのか。色蘊を罵っているのか、受蘊を罵っているのか、想蘊を罵っているのか、行蘊を罵っているのか、識蘊を罵っているのか。罵る声はどこに落ちるのか。罵られた者が不快に感じるとは、どのような不快か。どの法が不快を感じるのか。不快とは何を指すのか。快と不快という法が存在するのか。罵る者が快く気が晴れるとは、どのような気晴らしか。気が晴れるという法があるのか。
深甚な禅定においてこれらの法を思惟観行するとき、ある時点に至れば、内心はこれらの法を空じ、身心は脱落する。これもまた一つの感覚であり、やはり真実ではない。しかしながらこれは解脱である。禅定なくしてこれらの法を理解し、どれほど多くの書物を著しても、全て空論に過ぎず、己をも他人をも誤らせる。
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