意識がない場合の具体的な事例を見れば、この問題の答えが分かります。意識がない状態、例えば夢のない眠りや夢を見ているとき、この時の末那識(マナス)は何をしているのでしょうか。無為に過ごし、対象に触れず、境界を弁別していないのでしょうか。明らかにそうではありません。あらゆる時において如来蔵は一切の法を生じ顕現させ、末那識は一切の法を黙容する特性を有しているからです。末那識は必ず如来蔵に依拠して、如来蔵が二次的に幻化した法に触れ、如来蔵の見る法を自らの見たものとし、これらの法を自己の所有とするがゆえに、種々の心行と思惟を生起させ、ついに夢境を現出させるのです。夢中の一切の思想観念は末那識のものであり、一切の心行は末那識のものです。意識は末那識を補助する作用しか持たないため、一個人の真実の修行の程は、夢中の表現を見れば分かるのです。
昏迷状態では意識がありませんが、末那識はこのような昏迷に甘んじず、身体が少しでも回復すると目覚めようともがきます。これは昏迷中に意識がなくとも末那識に思想活動があり、心所法が運行し続け、常に身根の状況を注視し、身根の状態を弁別し、昏迷が良くないことを知り、目覚める方法を模索していることを示しています。ある者は昏迷中に親しい人を探して救済を求め、情報を伝え、自らの所在と状況を親しい人に告げることもあります。よって末那識は独立した一個人を代表し、種々の心行・心所法を具え、多くの内心活動を有しているのです。ただその操作には意識と五識の協力が必要なだけなのです。
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