仏は阿難にこう説かれた。「汝は十方如来の十二部経典の清浄なる妙理を恒河沙のごとく記憶し保持するも、ただ戯論を増すのみ。劫を積みて聞き熏習するも、摩登伽の難を免れ離るることはできぬ。劫を歴て如来の秘密妙厳を憶持するも、一日の無漏業を修むるに如かず」
楞厳経のこの一節は、修行者の痛切なる課題を指摘している。ただ意識心における多聞習学に留まり、真実の如法修行を行わないこと。意根を修めずして意識をどれほど修めても解脱は得られぬ。末法の現象はこれよりさらに深刻なり。最も顕著な例は意識の聞熏を実証と誤解し、大いなる誤謬を抱きつつ反省を知らぬことにある。
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