衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年10月29日    月曜日     第3 回の開示 合計970回の開示

意識の解悟は仏法の急速な滅亡を招く

意識単独の知は解悟・開悟して如来蔵を証得することであり、意識は必ず証するが、意識のみが証する場合は真の証とはならず、意根も同時に証する必要がある。意識のみが証する場合は解悟に過ぎない。もし意識のみが証するならば、他人から如来蔵がどれであり、どこにあり、どのような作用を及ぼすかを教えられれば、それで証悟したことになる。これを証悟と認めるならば、我々は全ての衆生に如来蔵がどれであり、どのような作用を及ぼすかを伝えることができ、そうすれば衆生が大乗法を修学する必要もなく、参禅も不要で、全ての衆生が直接開悟して菩薩となる。その後、各関所や各段階の密意を直接衆生に伝えれば、全ての衆生は直接証得し、こうして成仏は極めて迅速に達成される。世尊はなぜこの方法を取らず、密義を明言することを禁じられたのか。

一切の法は意識が先に解し証してこそ、その後意根が解し証することができる。意根は智慧が不足しているため、意識の思惟能力に依存しなければならない。多くの法を意識は知っているが、意根は知らない。意根は理解し証得することが容易ではない。

現代人の意識はあまりに聡明で、容易に理を理解するが、意根の貪瞋痴の煩悩による覆いが甚だ深刻で、強い対照を成している。意識の解に満足すれば問題が生じ、仏教はこれにより急速に滅びるかもしれない。六祖壇経が現れる以前、仏教徒は皆実修し、禅定と参禅を修め、決して口頭禅を弄することはなかった。壇経が現れて以降、方向性が転換し、大衆が集まれば皆口頭禅となり、壇経に記された内容を読んで禅法を理解したと感じ、再び苦労して参禅する必要もなく、修めるべきものは何もないと考え、ただ談義にふけるだけで実際の修行がなくなった。現代人はなおさらこの傾向が強い。

——生如法師の開示
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