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日常法話

2019年11月03日    日曜日     第1開示 合計2005開示

諸法因縁生、我説即為空

縁とは、一切の法が生まれるために必要な外縁・外力のことである。因とは、一切の法が生まれる内在的な動力であり、業種とも言えるし、過去世に造作した業行とも言える。業種という因に、外力という縁が加わって、諸法が生まれる。しかし、その中にもう一つの因由がある。それは、誰が因縁を通じて諸法を生み出すのかということである。この因由は他の何ものでもなく、如来蔵である。

たとえば小麦の誕生について言えば、因は小麦の種子であり、縁は気候や土壌などである。因縁が具足して、小麦の芽が生まれる。しかし小麦の芽は自分で能動的に生まれることはできず、人為的に種子を土壌に蒔き、施肥し、灌漑し、水をやり、風を通す必要がある。もし人工がなければ、たとえ小麦の種子があり、地水火風があったとしても、両者は和合することができず、小麦の芽は生まれないのである。同理として、業種と外在的な縁だけがあっても、如来蔵が両者を統合しなければ、諸法は生まれない。なぜなら、諸法は七大種子によって組み合わされたものであり、如来蔵の中にはこの七大種子があり、業種も含蔵している。外縁・外力もまた諸法の中の法であり、同じく七大種子によって組み合わされたものであり、如来蔵が生み出したものである。それゆえ、諸法はどのような法であれ、すべて如来蔵が生み出したものであり、すなわち因縁所生なのである。諸法が因縁所生であるならば、それは本来なく、後から生まれたものであるということになる。生まれたものは必ず滅するのであり、因縁が滅するとき、諸法もまた滅する。それゆえ諸法は空であり、因縁所生の法は空であり、了不可得(つまるところ得るところがない)のである。

——生如法師の開示
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