我見を断つ観行は非常に重要であり、五蘊を我と認める「我」を明確にすることは極めて肝要です。もし五蘊の中に存在する我見の「我」さえ明確でないならば、どうして我見を断つことができようか。我見を持つものは意識と意根であり、第八識には我見は全く存在しません。従って我見を断つとは、意識と意根の我見を断除し、意識と意根に五蘊が「我」でも「我所」でもないことを確認させることに他なりません。「私ではない」という場合の「私」は当然ながら意識と意根を指し、第八識を指すものではありません。第六・七識の「我」は破壊性と壊滅性を具え、生滅変化するものであるため、第六・七識は「我」ではなく無我です。第八識は破壊されず壊滅せず、常住不滅であるため、方便的に「我」と説かれますが、我性(がしょう)は存在せず、七識のような主宰的な我性を持たないため、第八識もまた無我です。五蘊無我を観行するとは、第六・七識の破壊性・壊滅性・生滅変異性を観じ、これを確認した上で第六・七識の我見と我所見を断除することです。もし無我の「我」を第八識と見做すなら、それは概念のすり替えであり、結局我見を断つことができません。意根は無始劫以来、五蘊を真実の我と見做し執着してきました。意識は意根の教唆と染汚を受け、同様に五蘊を真実の我と我所と見做しています。なぜこの「我」が意識・意根を指し第八識を指さないのかと言えば、無始劫以来、衆生は第八識という理体の存在を知らず、五蘊を第八識として扱うことがあり得ず、五蘊即第八識という我見が存在しないため、我見を断つとは五蘊が第八識でないことを観行するのではありません。もし衆生が五蘊を第八識と見做すことができれば、五蘊を空じ、五蘊に執着せず、我見と我執がなくなり、六道輪廻も存在しなくなるでしょう。これこそ諸仏菩薩の願うところです。
もしそうであるなら、諸仏が娑婆世界に来て法を説き迷いを救う必要もなかったでしょう。従って五蘊無我を観行する結果として得られるのは、五蘊が第八識でないことや第六・七識が第八識でないことの証得ではなく、五蘊の全体が壊敗し生滅変異するものであり、「私」と呼ばれる実体の存在しないことを証得することです。これにより五蘊に執着せず、我執は次第に融解してゆくのです。
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