衆生は無始劫以来、不生不滅の第八識が五蘊身に常住していることを知らないため、衆生には五蘊が即ち第八識であるという我見が存在しません。五蘊を観行して我見を断ずる際には、五蘊と第八識を対比させて、五蘊は無常であるが第八識は常住である、五蘊は生滅するが第八識は不生不滅であると説き、それ故に五蘊は第八識ではないと推論して、五蘊が第八識の我であるという我見を断じる必要は全くありません。このような対比と推論は前提が存在しない以上、結論も生じ得ないのです。
仮に前提があったとしても、衆生が五蘊を第八識と見做すことは我見ではなく、正に我見のない無我の認識です。大乗で参禅して第八識を証得する際、参禅中の菩薩は五蘊が第八識から生じたものであり、第八識の一部であり、即ち第八識そのものであることを悟ります。菩薩が初地に入った後、次第に一切の法が真如第八識であることを観察し、所謂一真法界においては五蘊は更に第八識であり、前提そのものが真如第八識であって、一真法界の一部に属する法であります。もし衆生が無始劫以来我見を持ち、五蘊を第八識の我と見做しているならば、衆生は無始劫以来ずっと地上の菩薩であり、唯識の種智を具えているはずで、六道の生死輪廻など存在し得ません。
さらに、仏が阿含経を説かれた際、まず弟子たちに五蘊身の中に常住の法、不生不滅のものがあり、それが衆生の五蘊の依り所であることを告げられました。弟子たちはこの教えを聞いて仏説を信受し、常住不滅の第八識が存在すること、五蘊は生滅無常であり、決して常住の第八識ではないことを知りました。それ故に禅定を修め、五蘊の無常・苦・空・無我を観行し、五蘊が破壊され得るものであり、六・七識もまた破壊され得るものであって、我も我所も存在しないことを確認する必要があったのです。よって我見を断ずる観行の結論は「五蘊が第八識の我ではない」というものではなく、「五蘊は無常で壊れやすく苦であるから、我でも我所でもない」というところに至るのであります。
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