衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年11月04日    月曜日     第4 回の開示 合計2010回の開示

六祖の悟道は現量による第八識の観察である

大乗菩薩が禅を参究する実証とは、いずれも自ら第八識を証得し、その機能作用を現前に観察するものであり、推論によって第八識の存在や機能を推測するものではありません。推論は実証ではないのです。六祖大師が五祖和尚から金剛経を聞いて悟りを開き、真如第八識を実証された時、直ちに第八識を現前に観察することができ、そこで五つの「何期自性」を説かれました。その他の禅宗の祖師方も悟りを開かれた時、皆第八識を実証されており、推論に頼ることはありませんでした。実証があってこそ現量をもって第八識の機能作用を観察でき、般若の大智慧を獲得するのです。般若の智慧が満足するに至れば、掌中の庵摩羅果を見る如く、第八識の極めて多くの機能作用を現前に観察できます。これは掌中に庵摩羅果があると想像するのではなく、目で見て庵摩羅果が実在することを知るようなものです。第八識を証得するのも同様で、第八識がどのような機能を発揮するかを推測するのではなく、現前に五蘊十八界における第八識の種々の作用を観察できるのです。

推論や想像は意識の機能作用であり、実証は意根の親証に関わります。意根による実証は現量として現前し、ただちに観ることができるもので、何らかの法に遭遇してからその中に第八識があると懸命に思惟する必要はありません。思惟するものは頼りにならず、意識が滅すれば思惟できなくなり、第八識は見えなくなります。特に命終後、意識がなくなれば第八識を思惟することはできず、第八識の存在を観ることができなければ凡夫のままであり、凡夫の身をもって転生することになります。一生をかけた修行が無駄になり、誠に惜しいことです。したがって、現前にただちに第八識の功用を観ることができず、推論によって第八識の存在を証明しようとするものは、いずれも証悟とは言えないのです。

——生如法師の開示
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