未到地定 (anāgamya-samādhi) または初禅定の中で、意識がある法義を如理に思惟する過程と結果を意根に伝え、意根が綿密に思量 (manasikāra/manana) して証明し、意識の認知を確認する。あるいは、意根と意識が如理如実の結論を導き出せず、結果が出ない場合、意根は意識が提供した手がかりをもとに、自分一人で思量参究し、最後に事実に合致した結論を導き出す。これが証である。意根の証は禅定から離れられず、禅定を離れると意根は散乱し攀縁して、専心に思量し考究することができず、実証できなくなる。しかし意識の思惟と理解は、禅定があってもなくても可能であり、禅定への要求はそれほど高くない。なぜなら意識の慧力 (prajñā-bala) は意根より大きいからである。前期の意識の思惟観行 (vipaśyanā-caryā) の過程では、必ず現量で観察しなければならず、現量であればあるほど意根への啓発が大きい。意根は多くの場合、意識が現量で観察した法でさえ認知しにくいのである。まして現量観察でないもの、意識の非量の想像や推理・推測では、意根に認知させ、同意させることはできない。意識の比量と非量の思惟は、意根への作用が小さく、意根は容易に認めて信じない。意根は意識の現量観察に依拠して、自らの思量性を起こし、思量して明らかにすれば同意して証得する。思量して明らかにならなければ、依然として意識だけが単独に知っているのである。
たとえば、意識は色身が一年一年と急速に変化していることをはっきり知っている。人は幼年から瞬く間に成長し、さらに瞬く間に青壮年になる。特に中年と晩年になってからは、心境の関係で、なおさら日々があまりに速く過ぎていくと感じ、自分が早く世を去ることを恐れ、命をとても惜しむ。なぜ命を惜しみ、時間が速く過ぎるのを恐れるのか。それはすべて、色身は遅かれ早かれ滅するものであり、永遠に老いず病まず死なないものではないと知っており、無常であると知っているからであり、あるときは苦だと感じることもある。しかし、意識がこれらを知っていて何の役に立つのか。意根は一向に取り合わず思量しない。それゆえ、生まれ変わるごとに、あるがままのまま続き、生死輪回は免れ得ないのである。多くの事柄は、意識が知っていても役に立たない。意根が知らない限り、どうするべきかはどうされるままであり、何一つ変えることはできない。
それゆえ、意根の証はきわめて重要である。神様は過去・現在・未来をつなぐ作主識であり、生死輪回は神様の言い分で決まり、煩悩と無明の断除も神様の言い分で決まり、解脱も神様の言い分で決まり、成仏も神様の言い分で決まる。修行において意根より重要なものはない。第八識は意根よりさらに重要ではあるが、修行では第八識を修する必要はなく、意根がなければ第八識は何も為し得ない。第八識だけでは何の役にも立たず、一切の法の成就はすべて意根の推進力に依っている。それゆえ、意識が思考した法は、必ず意根に薫染させ、意根に思量し権衡して取捨させ、意根にも法を証させなければ、意識の行いに功徳が生じず、結果が生じず、果報が生じないのである。
13
+1