七地の満心の時、より殊勝なる三昧を修め、三昧の楽がある故に、三界を離れずして無余涅槃に入ることはありません。初地から七地の菩薩の間、五蘊の世間への貪愛を断じたため、五蘊の世間法を喜楽せず、一旦執着を断じ尽くせば、三界世間に意根を繋縛する法は無くなります。そこで菩薩は無余涅槃に入ろうとします。故にこの期間、微少な煩悩惑業を留め、些細な法に対し一抹の貪りを保ち、これによって意根を三界に繋縛するのです。
仏道に断固たる志を持ち、衆生を度することを諦めなければ、無余涅槃に入ることはありません。これもまた微細な執着ではありますが、暫時は保持せねばなりません。華厳経に菩薩の十の無尽願があり、菩薩が初地に入る前に必ずこの願を発し、永劫に仏道を修学し、衆生を見捨てず、涅槃に入ることなく最終的に仏道を成就することを保証せねばなりません。
心が我執と法執を離れてこそ自在解脱であり、執着すればするほど心量は狭くなります。八地の菩薩は心に執着なく無為自在、願いに随い自然に任せ、心は広大無礙であり、神通力も最も大いなるものです。菩薩の身をもって仏身を現じ、仏国土を現出し、無量の衆生を広く度します。三果以前はこの願を発する必要もなく、また無余涅槃に入ることもできません。何故ならば全て貪瞋痴の煩悩によって三界に繋縛され、五蘊の世間に貪愛があるため、三界の生死の繋縛を離れず、業報の苦悩を受けるからです。貪愛が重ければ重いほど、瞋恚が強ければ強いほど、愚痴が深ければ深いほど、苦悩は増大し、生死の繋縛はより深刻になります。各人が自己に執着し、自己を貪愛するのは自らを害する元凶であるにも関わらず、自覚せずに我執を繰り返す様は、実に憐れむべきことです。
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