五蘊無我の法理は、意識で考えてみればおよそ明らかになりますが、意根はこれを理解できません。意根が理解しなければ、何の役にも立たず、何も変えることができません。どうすれば意根を薫染させ、意根にも理解させ、我見を断つことができるのでしょうか。それは禅定を修め、定中で意識がはっきりと思考し、法義を意根に懸けておき、定中で一念も生じさせずに意根に思量させることです。意根の思量が活発であればあるほど、受ける衝撃が大きければ大きいほど、やがて意根の固着した知見を覆し、五蘊が無我であることを確認すれば、我見を断つことができます。
もし定中で依然として意識に頼って思考するなら、第一に禅定が浅いことを示し、第二に法義が意根に伝わっておらず、意根が薫染されていないことを示します。意根が法義を思量できないため、意識による思考に頼らざるを得ません。もし意識が一念も生じず、意根も思量しなければ、枯れた定に入り、観行の智慧が生じず、般若の大智慧も現れません。
禅定のない人は往々にして、証果が早く容易だと感じますが、それは意識の思考的理解によるもので、当然意根の思量より何倍も速いからです。禅定のある人は、証果が早く容易だとは感じません。なぜなら意根の無明が重く、真理を受け入れるのが比較的遅く、法義を思量するのも遅いため、意根の無明を断つことは非常に容易ではないからです。
念仏を例にとると、禅定がない時は意識で大声を出して念仏を唱えますが、少しでも念仏の定が現れると、念仏の声は小さくなり、定が深まるほど声はさらに小さくなります。定が深まると、もはや声を出して念仏できず、心の中で念仏し、口で唱えるのではなく心で念じます。定がさらに深まると、意識の心念でも念じられなくなり、定中に入ります。もし意根が薫染されていれば、意根で念仏をします。意根が念仏する時は、意識の口誦も意識の心念もありませんが、心の深層では確かに仏を縁として思い、空になることはありません。念仏が意根に薫染されるとはこのようなもので、ゆえに禅定がなければ仏法修行は十分に修めることができず、靴を履いたまま痒い所を掻くようなもので、何の問題も解決できません。仏が説かれたように修行には戒・定・慧の三大法宝が具足していなければならず、一つも欠けてはなりません。仏語を信じ仏教を尊ぶことで初めて成就を得られるのです。
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