一切の有為法は如来蔵が幻化した仮の相である。人類は充分な交流と表現のために、これらの法相に相応する名を仮設する。名がなくとも区別は可能であるが、ただ衆生同士の言語による交流が不便であり、互いの指すところを明確にできぬ。畜生類は有為法に名相を仮設せずとも区別するが、相互の交流は叶わず、以心伝心でしか伝えられず、言葉で伝えることはできない。
学法修行を通じ、相と名において理にかなった思惟観行を行えば、如実智を得る。相と名の実質的內涵を如実に分別了知し、有為法の虚妄不実を深く悟り、心は再び有為法に動転されず、真如の如く如如不動となる。かくして七識心は真如から離れ、次第に真如に近づき、ますます真如に似てくる。ついには心が真如の如く清浄となり、仏となる。ここに修行は完遂される。
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