諸仏菩薩が現じた三千大千世界は有為法であるが、それはいったい何なのか。あるいは何でもないのか。これらの有為法は全て如来蔵の中の形も相もない種子から生じたもので、空なる幻化であり、実体ある法は存在しない。故にこれらの有為法を何であるとは言えない。しかしまたこれらの有為法が何でもないとも言えず、これらの有為法は相の上では存在し、相応する世俗法上の功用がある。この功用もまた幻化されたものではあるが、実際は如来蔵の功用である。しかしこの功用は確かに作用を有するが故に有為法と呼ばれ、そうでなければ無為法となる。
有為法が有為法と呼ばれる所以は、世俗界の法相と功用が存在するが故に、これらの有為法相に対し名称を与え分別し執着するためである。智慧ある者は心にこれらの有為法の真実の相を明らかに知りながら、なおかつこれらの有為法を用いることに何の障りも違和もなく、心は穏やかで貪りも怒りもなく偏執せず、行う一切が真諦にも俗諦にも背かず、大智慧をもって菩薩の利生事業を担うのである。
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