四念処経は定慧を併せ修め法眼浄を得る非常に優れた経典でございます。我々は定力と慧力が不足し、心が粗雑で自己を観察することができませんが、この経典は如何にして心を微細なレベルまで修め、次第に明晰に自己を観照し、自身の生滅変異が実体なきことを認め、我見を断除して小乗の四果を証得するかを教えております。
経中には四念処の観行法が説かれております:身念処観・受念処観・心念処観・法念処観でございます。身念処を観ずる際、まず呼吸を観察し、心念を絶えず呼吸に随わせ、一法に心を縁じて定止を得た後、観を起こし色身の生滅無我を証得いたします。その後全身を観じ、自身の身行造作を徹底的に観察し、現在の行為を明瞭に了知するに至り、最後にはただ一つの身念が残ります。その念を空じ、念想を捨てる時、内心は一切法が空であり我ならざることを知るのでございます。
将来禅を参究する際には、定力をもってこの念を参禅の公案、あるいは解決すべき法義に転換し、行住坐臥にこの参究の念を帯びておれば、時至れば法義を悟り得るのでございます。今我々の心は未だ不覚醒で、自己を理解せず観照も致しませんが、定を修めて心を微細にすれば、よく自己を知り、問題を解決できるようになるのでございます。
修行を続ければ功徳を体得できます。初めは束縛を苦にし心が抵抗いたしますが、習慣となれば自然と観照が可能となり、身口意の所作を徹見し、己れを知り己れを制するに至れば、百戦危うからず。法を以て自らを照らし、法に適うか否かを管理できれば、将来他者を導く力も備わります。己れさえ治め得ぬ者が、如何にして菩薩として衆生を導けましょうや。
現在の造作こそが身見我見であることを悟らねばなりません。これらの行為を実体視し執着するのは我執で、一切法の作用を実体視するのは法執でございます。まず観察できれば良しとし、実行可否に拘らず、遅速は人それぞれでございます。恐るべきは無明の状態で、自らの誤った知見と執着に気付かぬこと。それでは如何にして改められましょうか。
呼吸観より身念処を修め、次いで受念処を修めます。衆生は多く快受を求め心を駆り業を造作しますが、これらの感受は生滅する六識の作用、また意根の働きで、皆変異無常でございます。心念処観では六識心の無常を観じ、遂には意根に至ります。経文は簡潔ながら、各段階の観行を熟達するには長時を要し、その期間は人により様々でございます。
四念処経の結びに説かれる法無我とは、不壊の第八識を指すのではなく、小乗の観行はかくの如く観ぜず、さもなくば証果を得られません。小乗における我とは壊散する仮我を指し、実に恒常不滅の我は存在せず、一切法は皆無常にして滅び行くもの、故に法無我・非我と説くのでございます。
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