人無我は小乗の聖賢と大乗の聖賢の見地であり、彼らは程度の差こそあれ五蘊が我ならず異我ならざることを証得し、完全に五蘊無我を証得するのは四果の阿羅漢と辟支仏、および八地以上の大菩薩である。人無我に対するのは人有我であり、五蘊身なるこの人に我性あり、これが我であると認めることは凡夫衆生の知見であり、邪見に属し、六道の生死輪廻の苦しみを感召する。もし衆生が五蘊身を五蘊身として、五蘊身を実有的と認めれば、これが無明の生死邪見である。もし衆生が五蘊身を五蘊身とせず、第八識より出生したものとして、第八識の功能作用であり、その本質は第八識そのものであると認めるならば、この衆生は五蘊を我とする我見を破り、五蘊非我を証得し、五蘊に真実の属性なく、すべて第八識の属性であることを悟る。これが大乗菩薩の見地であり、かくして六道輪廻の生死業惑は漸く了畢し、三界輪廻より解脱することができるが、菩薩たちは決して三界を出ず。
我見を断じた菩薩は人無我を証得し、人を人とせず、色蘊を色蘊とせず、受蘊を受蘊とせず、想蘊を想蘊とせず、行蘊を行蘊とせず、六根を六根とせず、六塵を六塵とせず、六識を六識とせず、すべてを第八識の属性として、第八識の功能作用と見做す。五蘊十八界はまさに第八識そのものであるから、五蘊非我とは五蘊が第八識に非ずという意味ではない。
故に人無我の真実義は、人が第八識に非ずという意味ではなく、人に人の属性なく、人は人という我ではなく、人の属性は成立せず、人の功能性は真実ならず、人の功能性は無常にして生滅変異するもので、これもまた第八識より付与されたものである。かくして我見を断じた後は、もはや五蘊身を我あるものと認めず、五蘊身が我に属するものとも思わず、心に所謂我というものはなくなる。衆生はすべて五蘊を我と認めるが故に我執が生じ、生死輪廻の苦しみがある。もし衆生が皆五蘊を第八識と認めれば、無我を証得し、心に再び我というものはなくなる。心に我がなくなれば、次第に我への執着が軽減され、遂には我執を断尽し、執着なければ生死なく、輪廻の苦しみより脱するのである。
3
+1