衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年11月12日    火曜日     第1開示 合計2026開示

人無我の真実義

人無我是小乗の聖者と大乗の聖者の見地であり、彼らはそれぞれ程度の差こそあれ、五陰は非我にして不異我であると証得しました。五陰無我を完全に証得したのは、四果阿羅漢と辟支仏、そして八地以上の大菩薩です。人無我に対するのは人有我であり、五陰の身という人に我性がある、すなわち我であると考えることで、これは凡夫衆生の知見であり、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) に属し、六道の生死輪回の苦を感召します。もし衆生が五陰の身を五陰の身として捉え、五陰の身は実有であると考えるなら、それは無明の生死の邪見です。もし衆生が五陰の身を五陰の身として捉えず、第八識が出生させたもの、第八識の機能作用として捉え、その本質は第八識であると考えるなら、その衆生は五陰を我とする我見を破除し、五陰は非我であると証得したことになります。五陰には真実の属性はなく、すべて第八識の属性であり、これは大乗菩薩の見地です。こうすれば、六道輪回の生死業惑はしだいに了畢し、三界の輪回から解脱できますが、菩薩たちは決して三界を出ようとはしません。

我見を断じた菩薩は人無我を証得しており、人を人として捉えず、色陰を色陰として捉えず、受陰を受陰として捉えず、想陰を想陰として捉えず、行陰を行陰として捉えず、六根を六根として捉えず、六塵を六塵として捉えず、六識を六識として捉えず、そのすべてを第八識の属性として、第八識の機能作用として捉えます。五陰十八界こそまさに第八識であるのですから、五陰非我とは、五陰が第八識に非ずという意味ではありません。

したがって、人無我の真実義とは、人が第八識に非ずという意味ではなく、人には人の属性がなく、人は人という我ではなく、人の属性は成立せず、人の機能性は真実でないということです。人の機能性は無常で生滅する変異のものであり、また第八識が賦与したものでもあります。このように断我見 (ahaṃkāra-mamakāra-parityāga) した以後は、五陰の身を我とし我ありと認めることはなく、五陰の身は我の所有であるとも考えなくなるので、心の中にはいわゆる我がなくなります。衆生はみな、五陰を我と認めるからこそ我執があり、生死輪回の苦があるのです。もし衆生がみな五陰は第八識であると認めるなら、無我を証得し、心の中にもはや我がなくなります。心の中に我がなくなった以後は、我に対する執著がしだいに軽くなり、ついには最後に我執を断じ尽くします。執著がなければ生死はなく、輪回の苦から脱離するのです。

——生如法師の開示
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