法無我は、地上の菩薩が証得する唯識の甚深なる智慧の境界であり、五蘊に周遍する一切の法に対し、次第に一部の法は我ならず、我性無きことを証得し、大部分の法は我ならず、我性無きことを証得し、遂には全ての法が我ならず、我性無きことを証得して究竟の仏果を成じる。衆生は一切の法に一定の実体性ありと認め、それに執着する心を生じ、法執を有する。地後の菩薩は甚深なる唯識種智を具え、一部の法、大部分の法が如何にして第八識より出生し執持されるかを現前観察し得るが故に、三界世間の一部の法や大部分の法を実体的な自性有りと見做さず、かくして一部の法無我と大部分の法無我を証得する。
地前の菩薩と凡夫衆生は、三界世間の一部の法及び大部分の法の由来と実質を現前観察する能力を有さぬが故に、心にこれらの法に一定の実体性あり、我性ありと認め、宇宙器世間を宇宙器世間そのものと見做し、毫も器世間が全て第八識の属性であり、第八識の功能作用であり、第八識の種子より構成されることを観察せず、故に法に我ありと認め、法我執を有する。衆生は自らが認知する一切の理法を実有と見做し、一切の理法は理法そのものとし、毫もこれらの理法の実質が何であるかを観察せず、全て第八識の属性であり、所謂自体性無きことを知らぬが故に、これらの理法に我性あり我に属すと認め、故に法我執を生ずる。
もし衆生が現前観察して宇宙器世間が全て第八識の種子より構成され、全て第八識の属性であり、本質は第八識そのものなりと知るならば、衆生は再び宇宙器世間を宇宙器世間と見做さず、宇宙器世間の上に第八識の影を見、第八識の功能作用を観じ、法我見と法我執を有せざるに至る。もし衆生が現前観察して六根六塵が第八識の種子より成り、第八識の属性であり、本質は第八識そのものなりと知るならば、衆生は再び六根六塵を六根六塵と見做さず、六根六塵の上に第八識の影を見、第八識の功能作用を観じ、かくして法我見と法我執を有せざるに至る。(六根六塵は一切法の一部であり、これもまた法である。)
もし衆生が現前観察して一切の規則・法則・世俗諦・聖義諦が全て第八識の種子より形成され、全て第八識の属性であり、本質は第八識そのものなりと知るならば、衆生は再びこれらの規則・法則・世俗諦・聖義諦をそのままの姿と見做さず、これらの法則・諦理の上に第八識の影を観察し、第八識の功能作用を観じ、かくして法我見と法我執を有せざるに至る。故に地上の菩薩が証得する一切法無我とは、一切法が第八識ならざるを指すのではなく、正に一切法が全て第八識であり、一切法に自体性無く、一切法が空であり、幻化し、不実在で、壊滅し得ることを指す。一切法は我に非ず、我に異ならず、我と相在せずとは、一切法が第八識に非ず、第八識に異ならず、第八識と混在せざるを説くのではなく、正に逆に一切法の本質は全て第八識であり、一真法界中の法として悉く真実なりと説くのである。
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