解は意識の解であり、意根は解せず知らぬ。証は二者ともに知り解し、いずれも愚かならず。一つの法に対し、意識が解するは其の然るを知るにあり、意根が証するは其の所以然るを知るにあり。其の然るを知るは表面現象を知るに過ぎず、内面を知らず、比較的浅薄で粗雑な知であり、観察力なく、具体的・実質的・細部等を問われれば全く答えられず、法に対し粗雑で大まかなもののみ理解でき、細やかで深く具体的な内容を観察し得ず、故に法を説くに明瞭ならず、更に徹せず、曖昧模糊たる隔靴掻痒の感を与える。其の所以然るを知るは法の内在原理を知り、表裏に深く入り、法の実質と来由を悟り、観察力強く、法の具体的細部を了知し、思路明晰、理路透徹、論理厳密周到にして智慧強大なり。故に人の法に対する認知の程度を観るには、其の法の描写が粗雑な表面現象に留まるか、或いは具体的細部に深入りできるかを見よ。具体的であればある程、実証の程度深く、智慧もまた深し。粗雑であればある程、実証無く、実証より遠く、智慧浅く、愈々意識の解に偏り、意根の作用無きことを示す。
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